この瞬間を記憶しておくべきなのだろうか

「記憶」というものの倫理的地位について最近よく考えている。一般に記憶は良いこととされる。何かを覚えているということは賞賛されることであるし、何か良いことが起きた時にはこの瞬間をいつまでも覚えておきたいなどと思うのが自然であったりする。

過去の事柄を覚えているということが今の私たちにとって概して良いことであるというのは自明であるだろう。家族の名を覚えているから家族のことを愛情込めて呼ぶことができるのだし、レシピを覚えているからサッと料理を作れるのであるし、言葉を覚えているから私は今こうやって思考を紡げるのである。

しかし、過去を覚えているということはその過去にとっても良いことなのだろうか。よく、ある人は確かに亡くなってしまったけど「私たちの記憶の中で生き続けている(だから大丈夫)」とか、あるいは亡くなったある人のことを「決して忘れはしない(その死が無駄になってしまわないように)」とか、言ったりする。しかし、亡くなった人のことをいつまでも誰かが覚えているということがその亡くなった当人にとっても良いことだと本当に言えるのだろうか。

アニメ『となりの吸血鬼さん』では、花火大会の回で、花火を見て、こんなのは形として残らないじゃないか、こんな一瞬のことに何の意味があるのか、というようなことを言う吸血鬼さんに対して、主人公が、でも思い出が残る、というようなことを応えていた。こういうシーンは創作物ではよく見る。持続的なものこそ尊いという価値観に対して、瞬間的なものを賛美しようとして、その瞬間的なことの記憶というものを引き合いに出す。でも、それは結局、記憶が残るという持続に価値を見出しているわけで、当初の持続的なものこそ尊いという価値観を覆せたわけではない。

どうも、過去を記憶するということは無条件に良いことだと思われているような気がする。しかし本当にそうなのだろうか。もし仮に、過去を記憶するというのが今の私たちにとって良いだけで、過去の人たちにとっては少しも良くないことなのだとしたら、過去を記憶するというのは過去を今のために利用することに過ぎないということになるんじゃないか。それは過去をそれ自体として、つまり目的として尊重しているのではなく、道具や手段として使っているだけなんじゃないか。そう思ったりもする。

しかし、過去の当人が、自分のことを誰かに覚えてもらいたい、と思っていた場合はどうだろうか。もしその人の欲求が充足することがその人にとって良いことなのだとするなら、この人のことを今の人が覚えていることは、その人にとって良いことということになるだろう。

では私たちは、今の自分を未来の人に覚えてもらうように欲するべきなのだろうか。これは奇妙な問いかもしれない。でも何となく考えてしまう問いでもある。

こういう問いがあったということを覚えておきたいからこれを書いている。

過去について語れるのは今の人だけなのだ。この差別的なまでの非対称。