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G・A・コーエン『自己所有権・自由・平等』読書メモ


第1章

コーエンはノージックが依拠している原理を次のように抽出している。つまり、(A)取引している各主体の側における完全に自発的な取引の結果として、正しい状態から生起することは、何であれそれ自体が正しい。

これは、ある取引がその取引主体以外の主体にも影響を与えるという外部性の問題を無視しているし、またノージックの「自発性」の理解はおかしい。

「[選択の幅を狭める他人による行為が]帰結する本人の行為を非自発的にするか否かは、他人にそのように行為する権利があったかどうかに依存する。」(ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』より、[]内はコーエンによる)

仮に、ある人が働くか飢えて死ぬかの二つの選択肢しか選べないとしたら、そのような境遇に陥った原因が他人の不正な行為か正当な行為か、あるいは人為的なものですらない自然的不運によるものであるかなどに関わらず、彼の働くという選択肢は非自発的なものであると考えるのが当然であるはずだ。

つまり、強制の不在は自発性の十分条件ではない。


第2章

ノージックは、正しい手順を踏んで正しい状態から生起することは、何であれそれ自体が正しい、というが、運や過失が入り込むことによって、不当な手順を経ずに不当な状態へと至る可能性はある。就中、市場取引は多くの不確実性を含んでいる。

これに対して、市場の擁護者は、賭けの正当性に訴えることができる。つまり、そのようなリスクを承知の上でその賭けに参加したのであろう、と。

しかし市場においては、どのような賭けに参加するかは自由であるとしても、そもそも何らかの賭けには参加しなければならない。この点で、これは完全な自発性からはほど遠く、その結果生じた不都合な事態を正すことを正当化する余地は残る。


ある人がとれる選択肢の数と質は、社会のルールとその人が持つ資源の両方に依存する。したがって、時には追加のルールを定めて特定の人の自由を制限することが資源を分配することにより別の人の自由を広げることになる。ノージックはこれを認めず、自由を「横からの制約」として扱い、社会のルールがもたらす自由への制限のみを問題視するが、そのように考える根拠は極めて薄弱である。

自由は各人が持つ資源に依存するという観点に立てば、政府がある人の私有財産を別の人に移転することを、自由への「介入」と称するのは欺瞞である。なぜなら、それによって元の保持者の自由は縮小するかもしれないが、新たな保持者の自由は拡大するからである。つまりは(あえて「介入」という語彙を用い続けるのであれば)私有財産制を保持するということもまたある形での政府による自由への介入に他ならず、自由へのあらゆる制限に対する反対者になりたいのであれば無政府主義者にならなければならない。


そもそも、ノージックの自由の権利的定義に従うと循環が生じる。すなわち、何が正当な手順かと問うと、その手順が自発的になされた時それは正当である、と答える。次に、自発的行為とは何かと問うと、その人の取りうる行為の選択肢の制約にあたって何の不正な手順も存在しない場合、しかもその場合に限り、その人行為は自発的であるとされる。


以上のような議論から、コーエンは、自由という観点からノージックの主張を根拠づけることはできないとし、自己所有権という原理を導入する。

すなわち、リバタリアンは自由一般と自己所有権によって確保される特定の自由とを混同しており、リバタリアニズムの論理構成上の核心は自由ではなく自己所有権原理にあるということだ。

これは卓見。私が「自由主義」という言葉について抱いていた違和感をうまく解き明かしてくれている気がする。


第3章

この章では自己所有権テーゼは外的資源の不平等を正当化するのかが検討される。これについては、結局ノージックが言うところの「ロック的但し書き」の妥当性に委ねられることになる。

コーエンによればノージックはロック的但し書きを次のように精緻下している。非所有であらゆる者に利用可能であった対象が一般的に使用されなくなっても、それが一般的に使用され続けた時より人々の見通しを悪化させないことが、対象の専有には必要とされる。


ここで、以下のような自然状態を考えよう。ある土地があり、そこからAはmの利益をBはnの利益を得ているとする。ここに私的財産制を導入してAがその土地を所有することで、Aはm+pの利益、Bはn+qの利益を得ることができる。ただし、m,n,p,qは全て正の数である。

この時、Aによる土地の所有は、自然状態と比べてBの状態を悪化させることはないのでノージックのロック的但し書きによれば、その所有は正当化されることになる。


しかし、ここには2つの問題点がある。一つ目は、Aの所有がBの自由を損なう可能性があると言う点だ。そのような例として、Aがその土地を所有することで、Bは飢えて死ぬかAに従属する代わりに以前より高い利益を得るかの二つの選択を迫られるというような状況が考えられる。

ノージックは「自然権論的リバタリアニズム」と時に称されるように、あたかも義務論的論証のみによって私有財産制を基礎付けたかのように思われるが、その核たるロック的但し書きには帰結主義的考慮が含まれているのである。

そもそも、ノージックのロック的但し書きの理解では、Bの意思が全く反映されていない。ノージックはおそらくパターナリスティックな政策には反対すると思われる。すなわち、ある人に、結果的にその人の利益となるにしても、当人の意思に反してある政策を押し付けることは、自由を侵害するとして不正とみなすであろう。しかし、ここでノージックが正当化しているのはそのような行いなのである。

すなわち、仮にBがAによる土地の所有に反対する意思を持っていたとしても、結果的にBの境遇が改善するのであれば、Bの意思に反してでもAによる土地の所有は認められるとしているのである。これは結局、ノージックが「自由」という言葉を、自らの擁護する財産権による自由のみを指して使っており、他の種の自由を考慮していないためである。


ノージックのロック的但し書きの二つ目の問題点は、所有が正当化される際の比較対象が、その所有以前の自然状態のみであることだ。上の例において、今度は土地をBが所有するとしよう。ただし、ここでBはAよりも能力が高いため、Aが所有した時よりもAB双方がrだけ多くの利益を得ることができる。すなわち、Bがその土地を所有することで、Aはm+p+rの利益、Bはn+q+rの利益を得ることができる。ただしrは正の数である。

さて、Aによる土地の所有は確かに自然状態と比べる状況を改善させるかもしれないが、Bが土地を所有する状態と比べるとむしろ状況を悪化させるのである。あるいはAとBが土地を集団所有するという私有財産制とは別の形態をとることで、さらに状況が改善するかもしれない。なぜAによる土地の所有を自然状態のみと比べるのか、その点についてノージックは説明していない。


ところで、やや話は変わるが、ロールズの格差原理とノージックのロック的但し書きとの違いについて、コーエンは見逃されがちな点を指摘していてくれているので紹介したい。

ロック的但し書きを、自然状態だけでなく他の代替的状態との比較で誰の状況も悪化することはない時、ある経済体制が正当化される、というノージックよりも強い意味で解釈する場合、おそらくこれを満たすような経済体制は存在しないように思われる。なぜなら、どのような経済体制に対しても、その体制よりも状態が改善される人々が存在する代替体制が常に存在すると思われるからである。

一方で、ロールズの格差原理はこのような問題に直面しない。それは、ある経済体制のもとで最も状態の悪い人々が、何らかの代替体制のもとでの最悪な状態よりもさらに悪化することがない時、その経済体制は正当化されるとする。この時、ある経済体制のもとで最悪な状態にある人々が、その代替的な体制における最悪な状態にある人々と同一である必要はないのである。従って、最悪な状態にある人々が、別の経済体制においてはその状態が改善されるとしても、格差原理が満たされているということがあり得る。

このような違いが生じるのは、ロールズの議論においては、無知のヴェールに包まれた原初状態の下にある人々は、「最悪な状態にある集団」をあくまでも可変的な指示子として用いるのに対して、ロック的但し書きにおいて原初的専有の際に境遇の悪化を配慮される集団は固定的に指示されるためである。従って、ロック的但し書きが満たされない時でも格差原理が満たされることはあり得ると言える。

この点はロールズ自身も誤解している節があり見逃されがちだが、とても重要なことに思われる。


第4章

ノージックの自己所有権はその実質的含意の少なさという意味で強く形式的なものである。第1章、第2章で検討したように、ノージックの考える「(財産権的)自由」は、実質的な自発性を有さない。それが故に、現実には多くの労働者が資本家に従属しているのにも関わらず、それを「自由」な経済活動だと評価してしまうのである。


これは次のような弱点を持つ。まず、第3章で結論づけたように、自己所有権から、外的資源の不平等な分配を招く私有財産制が必然的に正当化されるとは言えない面がある。特に、ノージックは原初状態を、外的資源が誰にも所有されていない状態とみなしているが、コーエンはそのように考える理由はないとして、むしろ原初状態を資源が集団所有されていると考えたらどうなるかに目を向ける。

細かい議論は省くが、外的資源が集団所有されている状態で自己所有権を認めた場合、資源の平等主義的な分配が達成されると考えられる。すなわち、ノージックの意に反して、コーエンによれば、資源の集団所有という仮定を用いれば、自己所有権と資源の平等な分配は十分両立するのである。

ここでノージック側が異を唱える部分があるとすれば、そもそも自己所有権と資源の集団所有は相容れない。それは自己所有権が確保すべき実質的な自由を損なうということだろう。確かに、資源が集団所有されている状況下では、集団内の個人は他の構成員の意に反して資源を使えない。この状況を実質的な自由が損なわれている状態と見ることは可能である。しかし、他ならぬノージックが、たとえそのような状態であっても自由は確保されているとしたのではないか。すなわち、労働者は資本家の意に反して資源を使うことはできないのだが、それでも彼らの自由が損なわれているわけではない、とノージックは評価していたではないか。

従って、ノージックは、資源の集団所有下の自己所有権という想定を、それが確保すべき実質的な自由を欠いている、という仕方で批判することはできない。なぜなら、そもそもノージックの想定している自己所有権自体が、多分に実質的な自由を欠いたものであるからだ。


結局、コーエンは、ノージックの自己所有権が確保する「自由」は、実質的な自由を欠いており、本当に求められているのは「自律性」、すなわち自分自身の生活を本当に管理している状況であり、それを確保するためには自己所有権には制限を加えなければならないとする。


第6章

「富を作り出しかつそれを持たない一群の大衆という労働者階級の古いイメージは、(中略)生存に対する二つの主張、すなわち『私がこれを作ったのだから、これを所有すべきだ』という主張と、『私はこれを必要とする。得られなければ死ぬか衰弱してしまう』という主張が、異なっているだけでなく潜在的には矛盾する訴えとなっているという深刻で厳しい事実を隠蔽している。」(p.214)

これは極めて重要な指摘だ。現代はその矛盾が顕在化してしまった時代なのだと思う。ここに私がマルクス主義にいまいち乗れない原因があると思う。

「搾取の原則に埋め込まれた自己所有権原理と、自己所有権原理を否定して生産者ではない貧困な人々、とりわけ搾取されているわけではない貧困な人々に対する支援を擁護することを必要とする、利益と負担の平等という原理、これらの間の選択が強く求められている。」(p.216)


第9章

「自己所有権」は、カントがいうようには矛盾した概念ではないし、ドゥオーキンが言うようには曖昧な概念ではない。それはAがAを所有するという再帰的関係のことであり、そのような関係を所有権の概念自体が拒んでいるとは言えず、また自分自身を所有するとは、完全な財産としての奴隷に対して奴隷所有者が有するすべての権利を自分自身に関して享受することである、という形で明確化できる。それでもなおある程度の曖昧さは残るかもしれないが、それは他のものに対する所有権の曖昧さと同程度のものに過ぎない。


また脇道に逸れるが、ロールズの互酬性の仮定について、それには以下の二つの問題点がある。まず一つ目に、互酬性を満たせない、すなわち他人に利益を与えることはないが他人から利益を得る人々が、完全に排除されてしまうこと。

そして二つ目は、その人が社会的相互作用を通じて互酬的に得るものと、その作用がないときに得るものとを比較する際に、社会から完全に退出した自給自足の場合にその人が得ることになるものだけを考慮すべきか、あるいは、すべての考えうる退出の結託においてその人が得ることになるものまでも考慮すべきかが明らかでない点である。

すなわち、才能のあるものは同じく才能のあるものと結託して、才能のないもののいる社会を抜け出して別の社会を作る方が、より大きな利益を得ることができるのではないか、ということだ。

いずれにせよ、ロールズの互酬性の仮定はいくつかの無視できない欠点を抱えているように思われる。


第10章

コーエンは、ノージックの自己所有権原理を直接論駁するのではなく、彼が自己所有権と不可分であると考える3つの条件、すなわち奴隷でないこと、自律性を保持していること、単なる手段として使われていないということ、これらを自己所有権と区別することによって、自己所有権原理の説得力を減らそうとしている。すなわち、自己所有権を制限して平等主義的な再分配を行うことは、必ずしもそれら3つの条件を損なうとは限らないということを示す。