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ひとりごと 〜アフターコロナをどう生きるの!?

コロナと向き合う日々が
クルーズ船のくだりから遡ると
もうどれだけの日々となっているのだろう。
去年の初頭くらいからの話だから
およそ1年半くらい、すでにそんな日々が続いている
ということである。

「不要不急の外出を控え…」
政府や地方自治体からの
耳にタコほどの再三の要請に耳を傾け、
「ステイホームの日々をプラス思考で過ごそう」
「今のうちに"今しかできない"やるべきことをやってみよう」
との思考のもと、
様々な片付けや準備活動に精を出し、
「アフターコロナ世界」を夢見て
ひたすらと過ごす毎日ではあるのだが。

このコロナ時代への「嘆きの深さ」の度合いは
実際のところ十人十色であって、
具体的にはそれぞれが皆違うのだろう。
「嘆き度10%」の人、「嘆き度90%」の人、
色々といるのではないだろうか。

親兄弟家族や親類、知人、
それぞれの感じ方をリサーチしてみると
その度合いは顕著にあらわれてくる。

もともとが社交的で活発な人たちは
「ステイホームの毎日がもう死にそうで限界だ」という感じのようだし、
もともと内向的でインドアな人は
「実際のところコロナ前の毎日と実はそれほど変わっていない」
なんて人も少なくない。

私はどちらかというと後者のタイプで
「こんな毎日はもう疲れたよ」なんて話を家内にすると
「そうなの?コロナ前と生活スタイルがそれほど変わってないじゃない」
なんて返しをされたりもする。
確かに「それもそうだな」なんて妙に納得してしまったりもするが。

こんな私でも
「アフターコロナの世界」を夢見て、
多少の希望?に胸ふくらましたりももちろんしている。

会いたい人に会いにいく、旅行、
趣味ごとの対外活動、等…。
「今はコロナだからできない。できないのは俺が消極的だからでは決してないんだ」の
"言い訳"のもと、今は我慢の日々を過ごしている訳である。

この考え方は消極人間の免罪符とも実はなりうる。
「今活動的ではないのは自分のせいではなく、すべてコロナが悪いのだ」
とすべての原因をコロナに転化することを「今は」できる。

だからこそ、コロナが終焉(下火)になってからの
「活動再開の世の中」が実は少し怖かったりする。

「今はコロナだからね…しょうがない」
この言い訳が何事にも一切通用しなくなることがちょっと怖い。

例えば数年前から知り合いと楽器練習をしていて
「そろそろライブ活動を開始する」といっていた矢先に
コロナが始まってしまって、この2年ほぼ何も進んでいない。
お互いに「今はコロナだからね…しょうがない」の言葉のもと
練習も停滞気味となっているのだが、
「実はコロナ明け後も何も進まないのではないか」という恐怖もあったりする。
何も進まなかった場合、コロナはすべての言い訳だったことになる。
その事実が露見した時に
「ものすごい自己嫌悪間が自分を襲ってくる」という恐怖を
たまに考えたりしてしまう。

「友人知人との交友を華やかに強めていくんだ」というアフターコロナの思い。
しかしそれも「多分おそらく何も今と変わらないだろう」という、そんな恐怖。

コロナ時代の出口のことを夢想する時、
実は結構、そんなことをよく考えたりしている今日この頃。

自己嫌悪に陥らなくて良い様、
なんとか色々な舵取りを前へ進めていきたいと思っているのである。
ああ、なんとかしたい。

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