わたし、アーバンギャルド

そのころ私は女だけども女性ではないくらいの年齢でした。おっと失礼、初めてそのバンドのライブに行ったときの話です。ライブと言いましたが、私が見たものは、それまで私がライブとしていたものとは一線を画していて、朗読であり、演劇であり、自傷他害でした。言葉通りアンダーグラウンド(地下)にある、200人も入れば酸欠で死ねそうな箱。1曲目で四角い手のひらサイズの包装が投げられると一層人々の熱量が上がり、4曲目では窓ガラスを叩き割るように鍵盤のスタンドが揺れました。その時私の抱いた一番近い感情はおそらく“恐怖”で、心底やばい集団だと思いましたが、怖いもの見たさで訪れたライブが“しっかりと”怖かったので、私は大層満足して、帰路につきました。浜崎容子が入院中で不在のライブであったことを追記しておきます。

その日についた浅くは無い傷は、確かにずきずき痛むのですが、自分でつけた傷よりもずっとその後の私を生かしました。まあ何というか、そこから夢中になって聴いたということです。再生すると、その場所はたちまち秘密基地になり、シェルターになり、屋上になり、棺の中になりました。特に“四月戦争”が好きでした。春はどうしてこうもポジティブを押し付けてくるのかということは弊社における例年の議題でしたので、戦争だと言ってもらえたことに心底安心できました。

人によって思春期の様相は異なると思いますが、私は“自分を分かられたくない”という側面が前面に出るタイプで、過干渉で把握したがりの家人との相性が抜群に悪かったのでした。強く出る側面それ自体、どのような環境下にあるかに影響を受けるのかもしれませんが。ドラクロワよろしくスカート革命の旗を翻して出航する決意に、自我強化してもらった夜も一度や二度ではありません。そのころは強化というよりも寧ろ、自我境界を曖昧にしていたのかも。“片思いの幽霊”であり“あなたに私はなれない”ことは、分かっていても認めたくないお年頃でした。変化は人にとって、良いものであろうと悪いものであろうと、ストレスになり得ます。しかし変化していくこと、その不安を抱えながら進む姿勢を体を張って見せ、証明してくれたことは、私における今も続く長い“革命”です。「このバンドをこれからも続けていけるのか、分からなくなったこともありました。終わるとしたらどんな風に終わろうかと考えたこともありました。それでも僕は続けていきたいし、まとめていきたい(恋革ツアー東京MC)」と語ったときの声は、初めて聴く弱々しくも強い声でした。自我境界がゆるゆるだった私はそれらに少なからず傷ついて、そのおかげでやっと、本当に孤独になれた。孤独から逃げようと躍起になって消耗していることにも気づきました。人生を共にしてしまったバンドの自伝を読んで、サブリミナル的にこんなことを思いました。まとまっていませんが、まとまるはずがありません。読んでくださった方、ありがとうございました。

所謂少女三部作に記載の、「※このCDは可能な限り大きな音で聞いてください」の表記を忠実に守って、今日も明日も来年も、わたしはこの鏡に耳を澄ませるでしょう。

自分への処方箋。

「醜い髪にリボンを、醜い顔にルージュを。」
・厭世感には、ノンフィクションソングを、就寝前に。
・高めの自己感に足元がふらつくときには、修正主義者を頓服で。
・生ぬるい風に絶望したら、四月戦争を。副作用が強い時は半分に割って。
・死者の魂に会いたくなったら粉の女、1日1度までにとどめて。
・確かなものが欲しくなってしまったら、毎食後のあたしフィクション。

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