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わかるよ、わかるよ、って話

才能が素晴らしい!と世の中に認められている人も、そもそも世の目に触れられてない人も誰かの素晴らしい!とされる人間の影響を受けていて、そのまた素晴らしい!とされる人も、素晴らしい!とされた人間の影響を受けていて、そのまたその人も、素晴らしい!とされる人間の影響を受けていて、こうやって繋がっていくんだね、とおもいます。

たまに、昭和歌謡が好きです、という若い女性に出会うと、あぁこの人は粋な人なんだなと思わなければならない圧力に押しつぶされそうになったものです。わかるよ。と言えない何かを抱えていかなければいけない気がするからです。私が知らない素晴らしいものを彼女は知っていて、それを崇めている様子は、私には分からない何かを絡めとって生きているようで、カラオケボックスで肩身の狭い思いをするのです。
ただ、その時は、世の中に受け入れられた、いわゆる流行りの曲だったわけで、わかるよ、わかるよ、と言われていたはずでしょう。この気持ちは、椎名林檎が初登場した時に、椎名林檎なんて音楽ではない!という人間がいたというのと似ています。果たして。

サブカルチャーという言語がインターネットで蔓延していますが、当時サブカルチャーだったものがいまは、普通に、平然とした顔で教科書やテレビ番組で居座る姿が散見され、椅子とおしりが擦れていくような思いをすることになるのです。

だからどうって訳では無いのです、特に言いたいこともないのです、ですが、人間というのは革命的な人間というのは、存在したのかどうかという問いに行き着きます。

なにか人と違うことをしたとして、現代に合うように気持ち悪いくらい咀嚼して、出てきた吐瀉物に近いような柔らかい代物が世の中に登場していくのだろうと思うと、少し気味が悪いような感じがしてしまいます。だからといってスラングばかりを使ったヘイトスピーチか、反抗期の息子のような言葉を使えば良いと言う訳では無いと思うのです。ただ、自分の思う気持ちをそっくりそのまま写し取ったような言葉というものが世の中に存在しない以上、それは不可能なのかもしれません。

わかる、わかる、と思っていたものが全く見当外れだった、というのはよくあることです。才能が素晴らしいと言われていた人は、その人が本当に思っていた事じゃなかったかもしれないし、それでも素晴らしいと思って受け入れて、その積み重ねでカルチャーというものが出来て、言葉が積み重なっていくのかもしれません。
なのに、どうしてこんなにも感情と一対一対応する言葉が存在しないのだろう、と毎日思います。私のこの言葉にできない何かを、伝える手段があれば、いや、誰かに伝えなくても言いけれど、リフォームせずにそっくりそのまま、写し取ることが出来たら良いのになぁと思います。漸近していくしかないから、そのちょうど切りたいところは切れないけれど、少し離れたところで感情を切り取ることはできるから、それで大抵の人は伝えた気になっているのでしょう。

矛盾するようですが、分かろうとしなければ分からないのだから、分からないくらいが、ちょうどいいななんて事はどうしても思えません。どうか、人間の皆様には分かろうとしないから、分からないのだろうというスタンスをとっておいてほしいのです。「だってもう、分からないのだもの」という空気が澱んで東京中を覆ってしまっているので、だからこそ、住む場所がなくなりそうです。逆に、そっくりそのままではないと言うことが、分かっていながらも、それを分かる努力をして、分かるよ、ということも時には大切なのかもしれないな、そんな甘い言葉が人と寄り添うということで、堕落している人間に何の責任も負わないままに頑張らなくていいよというようなものだとも思います。あまりにも無責任、でも、その無責任が、無責任さを台無しににしてしまう言葉を介してしか、私たちは感情を伝える手段がないのかも知れません。素晴らしいとされる人間は、自分を追い込んでいて、それが昭和だとかなんだか言われようともがむしゃらに頑張っていて、Z世代の方たちは反抗期の中3くらいぼーっと生きているのかもしれないけど、わかるよ、わかるよと言うことが、人を殺めることに繋がらないなら、無責任に、そしてミーハーに分かるよと言う汚さを持っていたいと思います。

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