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「本当のところ、どうなの?」と聞きたくなる心境

私の中で、見聞きするものへの「リアル志向」が高まっている。

先日、『光浦靖子「バカにした笑いでした」あるテレビ番組の趣旨に嘆き』というタイトルのネット記事を読んだ。ある番組の収録に参加したところ、自身の作った手芸作品に対して、「500円なら買ってやってもいい」、正確には「こちら、一般の人にいくらまでなら出せる? と聞いて最高金額500円でしたー!」というコメントをされたという。その上で「スタッフ大爆笑」という展開で、光浦さんは「バカにした笑いでした。」とツイッターに投稿していた。

近頃、「誰も傷つけない笑い」というフレーズがよく聞かれるようになって、とりわけそういう笑いを生み出す人物が賞賛されるようになった。その「誰も」というのは主に、笑う立場にある視聴者のことを指しているのであって、笑いを取っている出演者自身の傷つきに関しては未だに無頓着な部分が残っている。そういうところが明らかになったのが、この光浦さんの一件なのだと感じた。誰も傷つけない、というのを目指すならまず第一に、その笑いを発している主体が傷ついていないことが確かでなければいけない。

テレビのバラエティ番組も、ステージの上のアイドルも、インターネットに溢れるささやかな幸せを綴ったエッセイも、「で、本当のところ、どうなの?」と聞きたくなる。字面がきついが、揚げ足を取りたいわけではなくて、「それが本当ならいいんだけど、もし本当じゃないなら、あなたは大丈夫?」というニュアンス、心配からくる問いかけだ。どんなに見栄えがよくても、内実を伴っていないなら私は面白いと思えないし、「本当のところ、どうなの?」と問いかけざるを得なくなってしまうようなものは、見ていてしんどいな、と思う。

混じり気なく明るいものが善で正義とされる潮流は、時代によって緩急の差こそあれど、絶えることは決してない。もちろん、絶える必要はないと思うけれど、その自信ありげな態度にうんざりすることがある。たしかに、「混じり気なく明るいもの」は理想だし希望だけれど、その現実味を考えたときにふと立ち止まってしまうくらいの賢さ、つまり考える力を、今や多くの人が手にしてしまっている。面白おかしくするために、あるいは分かりやすい展開にするために作り上げられたストーリーよりも、「本当のところ、どうなの?」を問いかける必要のないような実直なものを手に取りたい、と思う。

数週間前に、佐木隆三さんの『わたしが出会った殺人者たち』という本を読み終わった。「裁判傍聴業」を自称する佐木さんが、今までに出会った犯罪者のうち18名について、彼らが起こした事件やその背景を取材して書き記したものだ。その中で、私が思わず「これは」と思ってページの角を折り込んだ箇所があった。1974年に上野で知人と共犯で殺人事件を起こした木村繁治の章、彼が佐木さんに宛てて書いた何通目かの手紙の一部である。

人にわかってもらおうと思った時から、嘘が始まるのです。有りのままを有りのままに語ってこそ、初めて真実が伝わると思った時に作為が働きます。だから私は、わからないことはわからないと言ってきました。そしたら取調室で、警察官や検察観から「理論的に説明できないぞ」と言われ、理論的に説明のつく嘘を求められているような気がしました。
(佐木隆三『わたしが出会った殺人者たち』より)

理論的に説明のつく嘘」。この言葉に、頭を殴られたような気がした。ありのままを語っても、「理論的に説明できない」という理由でそれが否定され、拒絶される有り様は、今この現代においても続いているのではないか。これは犯罪についての供述の話だが、そうでなくても、事実が人々の理解を超えて複雑なとき、誰かの「理解」のために事実の本来の形が損なわれてしまうということは、往々にして起きているのではないか。私は「理論的に説明のつく嘘」よりも「理論的に説明のつかない真実」を知りたいし、「理論的に説明のつく嘘」を強要する側に自分が加担していないか、その構造そのものを知りたい、ということも思ったのだった。

この多忙な世の中で、報道にしても笑いにしても、発信されるものの分かりやすさ、受け入れやすさというのは重要な要素のひとつになっている。それもある程度仕方ないのかもしれないけれど、受け取る側の私としては、「本当のところ、どうなの?」を問いかけること、その答えを探ろうと努力することは怠らずにいたい。そういう意味での「リアル志向」が自分の中で日々、確かになってきている。

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