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自分の境界を守っていく

年が明けてからというもの、時間がぼたっ、ぼたっ、と垂れるように過ぎている気がして居心地が悪かった。年末年始の休みには部屋の片付けをしたし、休みを終えてからはいつも通りに仕事もしているので、過ごし方としては特段イレギュラーなわけでもないのだが、なんとなく、「これでいいんだっけ?」、「こういうことでよかったっけ?」という小さな問いかけが日常に付きまとうようだった。目や耳に入る至るところで繰り返される、今年の目標は、今年の抱負は、今年はどんな年にしたいですか、の声がけに、否応なくこちらも引っ張られて勝手に気持ちが逸っている。

毎年この1月や新年度の始まる4月なんかは、よーいドンのピストルをひっきりなしに鳴らされている感じがしてかなり気が滅入るのだが、とはいえ今年は例年よりも沈み方が浅い。去年はまるまる1年間コロナ禍だったこともあってか、自分自身に帰っていくような年だった。今までの道程は基本的に生きづらく、どうにかして「生きづらくない側」に行こうと躍起になっていた十代、二十代前半だったが、ようやくその段階を終えることができた気がする。生きづらさをどうやって解消するかではなく、どうやって折り合いをつけていくか、自分の中で問い方が変わった。もちろん、答えは到底すぐには出てこないので、せめてそれを問題にし続けよう、と思って過ごしていた。その、答えを保留にしながら問い続ける姿勢が、精神的な健康を維持していくのに大いに役立ったと思う。

自分の中では新しいフェーズに入って、新しいフェーズなのだけれど今ひとつ動き切れていない感じが、年明けからのもやもやを作り出している。

目標を立てて書き初めにどんと書く感じがあまり好きではないので、「これから守っていきたい自分のスタンス」くらいの気持ちで、数直線でいうところの右方向のベクトルを考えてみると、

「自分の境界を守っていく」

ということが思い浮かんだ。前の記事でも書いたことだけれど、とにかくここ最近は「誰かに披露するための私ではなく、私は紛れもなくこの輪郭の内側の存在として私なのだ」ということを繰り返して理解する日々だった。誰かの言葉で自分自身が増えたり減ったりするわけではないし、また誰かに何かを言うために自分の形を変える必要はない。言い聞かせるわけでもなく自然とそれが身体に馴染んでからは、生活が少なからず軽やかになったから、それを引き続き忘れないで過ごしたい。

小説家・吉本ばななのエッセイ『「違うこと」をしないこと』の中に、「違うことをしなければ、違わないことがちゃんと返ってくる」という一節がある。「違うことをしない」というのはたとえば、「ヘンに力が入ったり、ちょっとでも圧がある感じがあったら、「あ、こういうことじゃないな」と思」うことだという。私がやっていきたいのはこういうことでもあって、要するに、自分自身に過剰に負荷がかかるけれど今までこなせてしまってきたこと(そしてこなしたあとに深めの傷が残る)にあえて立ち向かっていかないでいたい。消耗した体力はもうすぐには元に戻らないことが分かってきたから、もっと無理のないやり方で自分の歩みを進められたらいい。

攻守でいくと完全に守りの姿勢だけれど、守っていくことで分厚くなっていく何かがきっとあるんだろうと思う。外側へ領土を増やしにいくというよりかは、自分を中心にした半径2メートルくらいの部屋を着実に居心地よくしていく、みたいな運動が、とりあえず今の私にはちょうどいい気がしている。そうはいっても居心地の悪さが原動力になることはあるから、コンフォートゾーンに浸らないようには気を付けて、ぼちぼちやっていきたい。

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