見出し画像

映像で読むか、音で読むか、文章で読むか


小説を読むとき、映像ではなく文章のまま読んでいるという話。

友人がツイートした何気ない会話がめちゃくちゃバズってるので、私も言語化してみようと思い。
(小さい頃の読書体験をDisられたり、想像力がないと遠回しに貶されたりしてイラッとしたので)


まず私の嗜好としてはファンタジーやSFがメイン
純文学とか恋愛ものは苦手。

母親が読書家の児童書/ファンタジー好きで、しょっちゅう図書館やそこでの読み聞かせ会に連れて行かれてたし
小さい頃の記憶は公園や遊園地よりも図書館や図書室の方が多い。
学校から家まで本を読みながら歩いては、ご近所さんに見つかって
母親にチクられて絞られたりしていた。

家に本はなくても、本に囲まれている生活ではあったと思う。
(母親が欲しいもの全部買ったら収拾がつかなくなるので、厳選に厳選を重ねてあまり買わなかった)
最近本は読めていないけど
直近で読んで面白かったのは劉慈欣の三体(中国SF興味深いから色々読みたい。時間がない)
なろう系やラノベのほうがよく読む。
上橋菜穂子さんの香君めちゃくちゃ楽しみ。


というのが前段で、決して親の育てかたの問題や小さいころの読書体験に問題がなかったわけではない。
とおもう。たぶん。

ついでに、初めて読んだ漫画は父親のエヴァンゲリオン
人並みにセーラームーンやカードキャプターさくらにあこがれて、ジブリとムーミンに育てられて、いつかキキやさくらちゃんみたいに空を飛べると思ってた幼女時代。
実写はあまりないけど、映像作品にもそれなりに触れてた。


前段が長くなってしまった。


「小説を読むとき、映像ではなく文章のまま読んでいる」について。

厳密にいうと、文章のまま読んでいるというか
文章がそのまま世界を表しているという感じ。
文章で入力→映像で出力(変換)の工程がなくて、入力されるだけ。

文章を通して世界を認識しているけど、物体や状態とかのキーワードはたまに現実のものとして浮かんでも「映像は浮かばない」というか「映像として集約されない」というか。
焦点が合わない。
逐一映像化される前に物語が進むので、読み終わった時に反芻すると映像は浮かぶけど、その瞬間は映像鑑賞的な読み方はしない。というかできない。
無意識下ではやってるかもしれないけど。

立ち止まれば浮かぶけど、いちいち立ち止まらずに先に走ってしまう。
面白い本ほど一気に読みたいし、読書を途中で止められるのはめちゃくちゃストレス。
疾走感のまま走り切りたい。
だから、わからない漢字とかも前後の文脈からの想像で流しちゃう。
新書とか専門書の場合はさすがに調べる。


気持ち的には「小説」を鑑賞してるんじゃなくて
物語を消費している感じ?
ザ・エンターテイメント


これを書きながら
もしかして、だからうじうじ同じことを飾った文章で繰り返す村上春樹が苦手なのかも!?と思ったり。
(超失礼)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?