拝啓、ストローを噛む貴女へ

 彼女は、ストローを噛む癖が治らないらしかった。それを特段気にしてもいない様子だったけれど、ガジガジに歯形のついたストローの先からでは飲みづらかろうと勝手に憂慮していた。
 僕は厄介な友人である。

 彼女は、ゆっくりと食事をする人だった。目の前の食事よりもむしろ、他のことに気を取られるらしい。僕との食事であれば会話に、1人での食事であれば周囲の物音や、店内に貼られたメニューや文字列に。
「私より後に店に入った人が、みんな私より先に早く出ていくんだ」
 なんとも言えない表情でそんなことを呟いていた横顔を、僕はなんとなく忘れることができないでいる。

 ただし、彼女は美味しそうに食事をする人だった。集中力はないのかもしれないけれど、料理を口に運ぶその一口ごとに、幸せそうな顔をする人だった。
 食事とは腹を満たすだけの行為ではない。会話を楽しみ、店内の喧騒を楽しみ、ゆっくり味わい、大事に食べることが食事の醍醐味だと教えてくれたのは彼女だった。
 でも、僕の悪癖はなかなか治らず、つい流し込むように食事を終えてしまうのは未だ僕に残された課題だが、彼女の食事が終わるのを待つことは僕にとっては尊く安らかな時間だった。だから、待たせてごめんね、なんて言う必要はないんだよ。

 飲むのも食べるのも遅い彼女は、決して食事が嫌いなわけではなかったと思う。少なくとも、食事に誘って断られたことはなかった。
 ある日曜、約束していたランチを当日にキャンセルされた。
 急用が入ることもあろう、彼女が急に予定を断るのは珍しかったものの、僕はそれを了解して、『また今度』と曖昧な返信をした。
 いつまで経っても、その返信に既読がつくことはなかった。

 連絡が途絶えて数週間。
 どうしているだろう、と思いつつも追って連絡をすることのできない意気地なしの僕は、ある夜に一人で外食に出た。元々自炊をする生活ではない。
 少し歩いて目についた店に入る。いらっしゃいませ、と優しいトーンで迎えられ、2人掛けの席に通された。奥のソファ席に腰掛けて店内を見渡すと、1枚の絵が目に入った。
 思い出した。この店は、前に彼女と一緒に来た店だ。

「あの絵、素敵じゃない?」
「いい絵だね」

 あの日テーブルの向こう側、ソファ席に座ってにっこりと笑っていた無邪気な笑顔がフラッシュバックする。
 あの人、今どうしているんだろう。
 居ても立っても居られない気持ちで、でも、立ち上がることもできずに、ほとんど無意識で覚えのある料理名を口にした。最後に会った日に彼女が頼んでいたメニューだった。
 スマホを手に取り、彼女とのメッセージ画面を立ち上げるも、やはり既読のない『また今度』の4文字が虚しく最後を飾っている。聞いてもいいものか。今、聞くべきなのか。
 逡巡しているうちに、注文した料理が運ばれてきた。いつもならスマホを睨みながらあれこれ悩み、食事は片手間に済ませてしまうところだけれど。
 そっとスマホを伏せ、湯気の立つ温かい料理に手をつける。小さめに一口を掬い、静かに口に運ぶ。
 おいしい。
 一筋、涙が頬を伝った。
 もう彼女には会えないのだと、心のどこかで確信してしまった。

 僕が食事を蔑ろにする癖は、貴女のおかげで治るかもしれません。
 貴女にも、ストローを噛まないでオレンジジュースを飲める日が来ますように。

噛み癖に恋をした厄介な友人より

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