見出し画像

感性に触れて、感性の体験を語る

私が初めて「絵画」というものに心を奪われたのは、フェルメールの作品だったと記憶している。残念ながらその展示は全て、リ・クリエイト作品であったが、約350年前に描かれた作品を最新技術を用いて復元したそれらは、絵画初心者の私にとっては、充分に見応えのあるものだった。

ヨハネス・フェルメールといえば、頭に青いターバンを巻き、黄色の洋服を身に付けた『真珠の耳飾りの少女』の作品が有名である。しかし私はその少女よりも、光と影で巧みに描かれた作品たちに一瞬で心を奪われてしまった。

とくに、『窓辺で手紙を読む女』という作品。光の表現の始まりと言われるこの作品に、私は人の流れも忘れて見入ってしまった。気に入って購入したポストカードは、『天文学者』という作品のポストカードと共に、部屋を彩る存在としてしばらく私を楽しませた。

フェルメールが巧みに表現した「光と影」の世界は、私が写真を撮るとき、思わずシャッターを切りたくなるシーンのひとつであったりもする。だから、私がフェルメールの作品を観たときに感じたのは、光の差し込む風景を前に、シャッターポイントを発見したときのようなワクワクした感覚だった。

そんな風にして、自分のなかに突如として沸き起こるこの感覚を私は意外と大切にしている。

たとえば、戦前から戦後にかけて活躍し、40年以上古い民家の絵を描き続けた日本の洋画家、向井潤吉。私は、テレビ越しに観た彼の作品に一瞬で目を奪われた。その繊細な描写は、テレビを通してもなお私にインパクトを与え、一瞬のうちに「いつか絶対に作品を観たい!」とまで思わせた。

調べてみると、どうやら世田谷に「向井潤吉アトリエ館」なるものがあるらしい。いつか絶対に、足を運んでみたいものだ。

また、絵画からは少し離れるが「オールド・ノリタケ」の陶磁器も、写真だけで私の心を掴んだ芸術品のひとつである。

オールド・ノリタケといえば、その金彩と描かれる繊細な絵が大きな魅力でもあるが、実際に展覧会に足を運んでみると、「盛上」という技法で作られた作品がそれ以上に私の感性をくすぐった。

「盛上」とは、筆やへらなどで器体の表面に液状の粘土や絵の具を盛り上げて文様を浮き上がらせる技法で、欧米でも「MORIAGE」と呼ばれ、高度な技術として高く評価されているそうだ。

鮮やかさが目を引く金彩の陶磁器とは違い、マットな仕上がりにも見える「盛上」が施された作品たち。その繊細かつ巧みな技法は「これって、本当に人間が作ったの…?!」と思うほど、私の目を釘付けにして離さないものだった。

__さて。

私がなぜ急に、これほど芸術を語りたくなったのか。それには、ある1冊の本が関係している。

「美術館は一人で行く派」

「うん、私もそうだよ!」なんてことを思いながら、この本を手に取った私。しかしその意味は私の解釈とは少し違っていて、実際にはこの本の、世界観そのものを表す言葉だった。

ふつうの雑誌の取材は事前にアポを取り、編集者さんが同行するものです。美術展の場合は一般公開前の内覧会などにマスコミ取材が入るようですが、_(中略)_正規ルートは通さず、ゲリラ的に一人であちこち出没し、誰に遠慮することもなく、好き勝手に書かせてもらいました。

簡単にいえばこの本は、作者である山内マリコさんがゲリラ的に楽しんだ芸術作品との対話を、作者独自の視点と感性でひたすらに綴ったエッセイ本なのである。

これはあまり大っぴらにすることではないのだが、いま私は、この本を3分の1程度しか読まずにこの記事を書いている。本来、本の内容を記事にするときには、最後まできちんと読むことが鉄則なのだが、この本はどうにも私の「記憶」を刺激するのだから仕方がない。

それに触発され、私の中で突如として沸き起こった「感性の体験を語りたくなる」というこの"体験"は、もしかするとひとつの読書の楽しみ方として正しいもの…なのかもしれない。(残りは、あとでじっくりと読ませて頂きます!)

そして私は、勢いのままこの記事を書いて、自分の芸術に対する知識と、表現力の未熟さを改めて痛感することになったのだった。「自分の感性を揺さぶられた」体験を少し綴るだけでも大変だというのに、作者は7年間にわたってそれを言葉にし続けたのだというから、感服してしまう。

厳選したコラム(エッセイ)101点を作品に見立て、美術館に展示するかのように並べたこの1冊。私はもう、芸術の秋を楽しまずにはいられなくなってしまった。まずは引き続き、この本で芸術の旅を想像するところから始めるとしよう。

皆さんからの応援は、本の購入や企画の運営に充てさせてもらっています。いつも応援ありがとうございます!オススメの1冊があれば、ぜひ教えてください。