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"詳解 銀行法" 書評とまとめ ~序章 銀行法の沿革 まで~

業務中になにかのきっかけで銀行法や資金決済法の話になり、そういえば法律ってちゃんと勉強したことないなと思っていつのまにか購入していたのが "詳解 銀行法" という本だった

自分自身、学生時代は工学を専攻し法学には全く触れてこなかったので理解できるか正直心配だったが、帯に 「預金取扱金融機関だけでなく、証券、保険、流通、一般企業、法曹界等の関係者に広く読まれることを企図して作成された~」とあり、またamazonのレビューでも理解のしやすさに定評があったので購入してみた。

著者である小山嘉明氏は東大法学部卒業後大蔵省に入省し、大蔵大臣官房審議官や日本銀行幹事などを歴任している。日本の銀行法、銀行業界を深く知り尽くしているからここれだけの質、量を本に落とし込むことができたのだろう。

内容は銀行法の沿革についてまとめた序章と、30章に渡る現行銀行法の各トピックの説明で構成されており、分量としてはかなりヘビーだ。自分もまだ10章あたりまでしか読めていない。
しかし各条文の内容を具体例を基にとてもわかり易く説明しており、制定の背景なども解説してあるのである意味銀行史の本としてもおもしろく読むことができる。職種関わらず、決済金融業に関わる方は一度目を通してみてもよいかもしれない。
特に 序章が実質"銀行と近代史"といった密度とボリュームになっており、これをまとめるだけで1つの記事になりそうだなと思いまとめてみることにした。

序章 銀行法の沿革

銀行法の沿革は実質日本における銀行の沿革と言える。銀行法によって銀行の定義がされているからだ。

内容としてはざっくり以下の図のようになる。

takashiの電脳

これでも相当端折った方である。
明治維新後の個人資産の変化や銀行の信用回復、高度経済成長、国際化などによって都度銀行のあり方が変化してきたことがわかる。

特に、各条例、法律の制定背景の中で歴史的経緯による銀行(政府)の信用と預金者保護の観点がよく出現し、当時の人間による金融や銀行、紙幣制度の浸透のための涙ぐましい努力が垣間見える。

1. 為替会社の設立と失敗

1868年に起こった明治維新後、明治政府は殖産興業を推進するために通商会社為替会社という2つの会社を設立した。

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通商会社は、自身でも貿易を営みつつ、各商社の指導統制も行う殖産興業の推進母体であった。
為替会社は両替商や富豪、政府からの出資金などを基に、通商会社へ資金融通をしつつ民間会社へ貸付や為替業務も行っていた。ある意味通商会社にとっての金庫である。
この為替会社が銀行の先駆けとなった。
ちなみに為替会社は"bank"の最初の日本語訳と言われている。

為替会社には太政官札の弊害を除去し紙幣制度を整理する役割もあった。
当時、国民はまだ紙幣に不慣れであり、政府の信用も強固でなかったため太政官札の流通が難しかった。
これを為替や貸付、紙幣の発行によって金融市場に広く流通させる使命も受け持っていた。

しかし、当時政府が金融市場の育成を急ぎ、ハイリスクな貸付などが増え多額の貸し倒れが多発した。
また明治維新直後で政府の組織構造が頻繁に変更され、最終的に通商司という通商会社を所管する役所が廃止。為替会社は大きな後ろ盾をなくし廃業や業務転換が相次いだ。

2. 国立銀行条例の制定、改正

為替会社の状況を鑑み、伊藤博文らが渡米し金融制度の調査を行った。
この調査結果を基に渋沢栄一や吉田清成、井上馨らと議論し1872(明治5)年に生まれたのが国立銀行条例である。

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国立銀行条例で定義された国立銀行は、

- 紙幣発行権を持つ
- 発行した紙幣に対し、正貨(金)兌換の義務を負う
- 株式会社とし、民間金融会社として位置づける
- 経営の健全性のため、国立銀行は商工業の兼業の禁止、大口融資規制、預金支払準備などの規定を設ける

という特徴を持っていた。
これは、政府が国立銀行条例を通して不換紙幣(太政官札)から兌換紙幣への切り替えを図り、紙幣制度の健全化を断行しようとしたことが背景にある。

国立銀行は紙幣発行権を持ちつつ、預金、貸付、為替など全ての銀行業務を行うことができたので、今で言う日本銀行とその他普通銀行両方の特性を併せ持っていたことがわかる。

しかし金兌換紙幣の流通による不換紙幣の回収は失敗した。
当時、貿易が輸入超過を続け、膨大な金の流出が続いていた。そのため、金兌換紙幣とその発行機関である国立銀行が信用されず、紙幣保有者は兌換要求を行い、銀行は兌換のための正貨準備を失っていった。

ちなみに、国立銀行は米国の"national bank"を訳したものだが、著者は

これはおそらく誤訳のたぐいであろう。本来の意味は、州法により設立される秀峰銀行に対地して、連邦法で設立される銀行を指すものであり、正しくは「国法銀行」とでも訳すべきものであった。

P10 第四 国立銀行条例の制定 一

と述べている。つまり文字面だけ見ると"国立銀行"は国によって設立された銀行のように捉えられるが、実際の定義としては"国法銀行"のようにあくまで国の法に則って設立された銀行であるということがわかる。
さらに余談だが、今の七十七銀行や八十二銀行などの商号はこの国立銀行名のナンバリングの名残である。

不換紙幣の回収失敗を受け、政府は1876(明治9)年に条例の大改正を行った。
それまで、国立銀行の紙幣発行には正貨準備を必要としたが、これを廃止し政府紙幣(不換紙幣)で兌換することにした。(国立銀行券の不換紙幣化)
これにより国立銀行の設立が相次ぎ、銀行の経営は回復していったが、不換紙幣の増発により不換紙幣の回収という問題が出発点に戻ってしまった。

3. 初の私立銀行設立

国立条例制定時、銀行の類似業務(貸付や為替など)を行う会社が存在していたが、条例はそれら銀行類似会社に銀行の名称を使用することを禁じていた。

しかし、そのなかでも特に三井組は信用や資金力も厚かったため、明治9年8月に条例改正を行い、政府は三井銀行設立の許可を与えた。

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私立銀行に紙幣発行権は与えられなかったが、それ以外の預金、貸付、為替業務などは行うことができた。これは今で言う普通銀行と同じ業務範囲であり、三井銀行は今の普通銀行の先駆けと言える

1876(明治9)年の国立銀行条例大改正時に、銀行の名称制限規定の削除が行われ、三井銀行以降にも銀行を名乗る私立銀行が複数設立され始めた。

4. 日本銀行条例の制定と国立銀行条例の再改正

1877(明治10)年の西南戦争以降、軍費調達のために不換紙幣が増大した。これにより経済全体が激しいインフレーションに見舞われてしまった。この状況を打破するために、不換紙幣の整理と兌換制度の確立を目的とし、1882(明治15)年に日本銀行条例が制定された。
これにより今の日本銀行が誕生した。

この時定義された日本銀行が発行する日本銀行券は兌換紙幣だが、現在の紙幣は不換紙幣である。これは1930年ごろの海外諸国での金本位制の相次ぐ廃止を受け、1931(昭和6)年に犬養内閣が金輸出を禁じたことに端を発する。これにより日本銀行券は実質的な不換紙幣となり、1942(昭和17)年の日本銀行法制定の中で日本銀行は不換紙幣を発行できるようになった(管理通貨制度)。

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1877(明治10)年に国立銀行条例が改正され、通貨発行量を強制的に抑え、物価高騰抑制を目的として国立銀行の累積紙幣発行総額が制限された。制限を超過すると、京都一五三国立銀行の設立をもって国立銀行の新規設立がストップした。

1879(明治12)年には国立銀行の設立が許可されなくなり、日本銀行の登場も相まって紙幣発行銀行としての国立銀行の存在が小さくなった。
すると、1883(明治16)年には国立銀行としての営業年限を20年とし、それ以降は紙幣発行権を持たない普通銀行としてのみ営業を存続できることとなった。これにより普通銀行の重要性が高まり、明治25年頃にかけて私立銀行の設立数が一気に増加した。

5. 銀行条例の制定

増加する私立銀行(普通銀行)の定義や業務範囲、規制を明確化するために、1890(明治23)年に銀行条例が制定された。
これは日本初となる普通銀行に関する法律である。

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銀行条例における普通銀行は、為替行為または与信行為のみを行う者も銀行という扱いになった。
設立には資本金の準備や大蔵大臣の許可を要し、半年ごとの営業報告書の提出義務や業務及び財政状況の監査を受ける必要があった。
これは、普通銀行が一般公衆のための機関であり、大口顧客のために破産してはならないという預金者保護の観点が色濃く現れている。

普通銀行の定義として"為替行為または与信行為のみ"となっているのは、当時一般公衆に預金をするだけの資金がなく、預金そのものが広く浸透していなかったためである。当時の普通銀行は今の銀行よりも貸金業の色が強く、その時代背景が銀行条例内の定義にも現れている。

銀行条例制定以降、普通銀行数は明治34年には1900行弱まで増加した。
しかし多くの銀行は零細銀行であり、経営面に問題を抱えていた。
条例施行時、大口貸付は禁じられていたが、銀行界からの声を無視できなくなり貸付制限を撤廃する条例改正を行ったために、親族や身内企業への大口信用供与が横行した。他にも貸し出しの増加による準備金の不足や兼業を行い、経営難に陥る銀行が増加していった。

6. 旧銀行法の制定

第一次世界大戦後の不景気による多くの銀行休業のさなか、銀行制度の抜本的見直しの声が広がった。それにより生まれたのが旧銀行法である。

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旧銀行法制定のための中心課題として、国民の銀行への信頼回復があった。
銀行への監督強化や法定準備金の増額、支店出張所の設置制限による過当競争の抑制により、銀行の信頼回復と経営の健全性確保を狙いとした

旧銀行法の内容として、

- 銀行の定義を明確化。与信行為(貸付、証券割引など)と受信行為(預金)を併せ営むもののみを銀行とした
- 銀行を株式会社に限定
- 最低資本金を100万(東京、大阪を本支店とする場合200万)と定めた
- 他業禁止
- 支店以外の営業所の設置及び変更を認可制に
- 法定準備金の増額
- 銀行役員の兼職制限
- 内部監査の強化
- 業務報告書の内容改正

といったものが挙げられる。軽く眺めてもわかるように、銀行への監督強化と預金者保護の観点がここでも色濃く現れている。

明治初期には一般公衆は預金するだけの資金を保有していなかったため、預金での資金集めが困難であった。逆に資産家の資本を基に貸付を行い業務が主だったので、条例としても与信行為のみを規制対象としていた。
しかし明治中期から国民の資産形成が進み、預金も行われるようになったという情勢を加味し、受信行為も内容に含むようになった。

ちなみに、与信行為はある程度耳馴染みのある方も多いと思うが、受信行為と併せて定義を明確にしておくと

- 与信: 銀行が顧客に対し信用を供与し、業務を行うこと(貸付、為替など)
- 受信: 銀行が顧客から信用を収受し、業務を行うこと(主に預金)

というものである。

国立銀行条例は株式会社に限定していたが、銀行条例では合弁会社や個人銀行も認めていた。これにより零細銀行の乱立を招いてしまったため、再び銀行を株式会社のみに限定した。

最低資本金を定めたのは、零細銀行の存在を許さないためである。
この最低資本金制度の確立が旧銀行法の要であり、これにより零細銀行の淘汰を行った。

他業禁止や銀行役員の兼職制限は、言わずもがなであるが本業に集中しろということであろう。

銀行条例では支店のみ設置、変更の認可対象だった。すると営業所という名目で多数店舗を設け過当競争や預金者保護に欠ける動きが見られたため、支店以外は出張所という名称に統一し監督を強化した。

7. 現行銀行法の制定、改正

旧銀行法は50年以上に渡って運用されたが、その過程で2度の石油危機による経済構造の変化(高度経済成長→安定成長)や石油危機による公共債の大量発行、国際化などの情勢の変化が起こった。
これらの情勢変化と旧銀行法の内容がそぐわない点が増えたため、1982(昭和57)年に旧銀行法を全面改正し、現行銀行法が制定された。

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現行銀行法の主な改正点として、旧銀行法では行政指導のみにより行われてきた分野に対し法文を起こし、法律に基づく行政に置き換えたことと、
時代にそぐわなくなった条文や法規制等の大規模な改廃、個別の行政介入を縮小するために法の空白部分に関しては銀行経営の自己判断を尊重するようにしたことの大きく2つがある。

また、現行銀行法と旧銀行法の対比として、以下の点が挙げられる。

- 新たに目的規定が設けられた
- 銀行の業務範囲が明確に
- 大口信用供与規制の規定を設けた
- ディスクロージャの整備
- 週休二日制の整備
- 一年決算制への移行
- 外国銀行支店に関する規定の整備

旧銀行法では目的規定は設けられていなかったが、現行銀行法では信用秩序維持、預金者保護、金融の円滑化、国民経済の健全な発展に資することを目的に据えた。
また銀行法の適用にあたり、銀行の自主的努力を尊重しなければならない旨が規定された。

銀行の業務範囲に関しては、それまで旧銀行法では、業務範囲の規定が簡単なものであり、個々の業務が付随業務に相当するか常に議論となった。そこで現行銀行法では固有業務、付随業務、認可を要する他業証券業務、他業業務の4つに分け詳細に規定した。

銀行の資産運用における安全性の確保と銀行信用の観点から大口信用供与規制の規定が設けられた。旧銀行法では供与規制は行政指導であって法規制ではなかった。

銀行の公共性、社会的責任を鑑み、銀行自体の業務及び財産の開示を行うことにより、銀行への社会ニーズの把握に努め社会的要請に適切に対応できるよう自主的な努力を払うよう求め、ディスクロージャの整備が行われた。これにより公告書類にBS,PLが追加された。

他にも世界の大勢であった週休二日を法制化したり、商法のもとにある他の一般企業と歩みを揃えるための1年決算制への移行、外国銀行支店に対し、本店に係る事項について報告を求めるための外銀支店に関する規定など、諸外国や他業種の会社との歩調を合わせるための要項が盛り込まれた。

現行銀行法の制定後も情勢に合わせ現在に至るまで何度か改正が行われた。

1993(平成5)年には金融制度改革に伴い、競争の促進による金融資本市場の効率化を促すための法改正が行われた。

1998(平成10)年には独禁法の改正に伴い、銀行の規制体系を単体規制からグループ規制にする改正がなされた。

2002(平成14)年には、銀行主要株主についてのルール整備などを行い、ネットバンキングなど新たな形態の銀行業を受け入れるための制度が見直された。
主要株主についてのルールを整備することにより、小売業やインターネット関連会社が銀行の主要株主になることができるようになった。

2007(平成19)年には、バーゼルⅡが導入された。これは銀行の自己資本比率や流動資本比率に関する国際的な統一合意であり、バーゼルⅡはバーゼル合意(バーゼルⅠ)の改定版である。現在はバーゼルⅢまである。

2008(平成20)年以降は金融ADR制度(裁判外の紛争解決制度)の導入や資金決済法の施行などが行われ、現在に至る。

まとめ

ここまで長かったが、国内外の情勢や経済、国民の生活形態に合わせて柔軟に銀行のあり方が変化し、不換紙幣の整理失敗や銀行の信用失墜などそれまでの失敗も踏まえて法改正の内容に盛り込まれ、改善を繰り返されてきたことがよく分かる。

とにかく預金者保護が重視されており、与、受の名にもあるように金融業は信用がなにより大事であると今回銀行史から学ばせてもらった。

序章以降の現行銀行法の内容についても余裕があればまとめたいが、如何せん30章もあるのでまとめきれるか自信がない・・・

殆どの方は序章でお腹いっぱいになるのではないかと思っているので、余力や要望があればまとめようと思う。

参考文献

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%AE%98%E6%9C%AD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E6%9B%BF%E5%95%86
https://hourei.ndl.go.jp/simple/detail?lawId=0000001551&current=-1
https://www.nomura.co.jp/terms/japan/wa/waribikisai.html
https://kotobank.jp/word/%E5%89%B2%E5%BC%95%E7%99%BA%E8%A1%8C-154358
- https://hourei.ndl.go.jp/simple/detail?lawId=0000020665&current=-1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E6%94%BF%E6%8C%87%E5%B0%8E
https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/pfsys/e24.htm/
https://www.fsa.go.jp/policy/adr/index.html

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