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フィリピン人から学んだ幸せについて

先日約半年間の留学生活を終え、帰国した。
(ヘッダー写真は、私が滞在中お世話になったDormitoryの部屋の窓から見える景色)

コロナの影響で急遽帰国日が早まったり、直行便が突如キャンセルとなってスーツケースを現地の人に物流が再開したら日本に送ってもらうようにお願いして託し、香港国際空港の地面で他の乗客たちに混ざって1泊して帰ったりと、今までにないハラハラ感を味わった帰国だった。笑

実は留学当初の計画から大きく変更し、アメリカでのプログラム受講終了後、2か月ほどフィリピンに滞在していた。

シアトルにいた時は、週末には教会に通って地元住民たちと交流し、カレッジではreplacementの勉強から授業のプレゼンに向けた勉強にも励み、忙しくも何一つ不自由のない生活を享受していた。

しかし、そこに満足感を得られない自分がいた。

毎日友達に会い、ホストファミリーとご飯を食べていたが、果てしない孤独感に常に襲われていたように思う。

その原因を自問自答する日々が続いた。

「自分が心からやりたいものに、しがみつくほど頑張れていない」

この一言に限ると思う。

つまり、気持ちが伴わなかった。「できる」ことが増えても、「やりたい」ということが見えなくなっていった。

しかし、ホストファミリーがフィリピンからの移民でフィリピンの話を聞いているうちに、どこか心の奥でずっと関心を寄せていた発展途上国での生活に、はっきりと興味を持つようになった。

親に自作の予算書まで見せてなんとか説得し笑、カレッジのhead teacherにも決断を伝え、3日ほどの一時帰国を経て、フィリピンへと向かった。

フィリピンでは現地の学校に通いながら、週末は現地のNPO経由でいろんな街を回った。

おいしいとは言えないご飯、整備されていないインフラ、ストリートチルドレン、毎日皮膚を刺してくる蚊、激弱WiFi。

最初は体験したことのない不便さに慣れることに必死だったように思う。

不便さが起因してか娯楽への関心が次第に薄れていき、毎日10時半就寝、5時半起床という、非常に規則正しい生活習慣になった。笑

1ヵ月を過ぎ少しずつ生活に慣れてきたところで、現地のフィリピン人とも徐々に仲良くなってきた。

最初の1ヵ月は環境に慣れることが難しく、正直苦しかった。でも、慣れてからはその不便さやフィリピン人の厚かましさに徐々に惹かれていく自分がいた。

1人、懇意にしてくれた先生がいた。

彼女はあまり外向的ではないが1対1になるとよく話すようになる。

1日だけ、彼女との1対1の授業で忘れられない日があった。

「なぜ働くのか」という話題だった。

私が通っていた学校の先生たちは1日授業を8コマこなし、さらに夜にはオンライン英会話の先生として英語を教えたり、週末には別の塾で講師として中高生に別教科を教えたりしていた。

相当過酷な時間働いているのにもかかわらず、彼ら彼女らがしんどそうにしている姿を私は1回も見たことがなかった。

そこで私は疑問に思い、彼女に「なぜそこまでして働くのか」と聞いてみた。

彼女の答えは、「家族のため、未来の自分のため」だった。

「大体のフィリピン人は家族のためって答えるはずよ。でも、1人だとやっぱりつらくなる時もあるからこそ、ポジティブな言葉をお互いに掛け合って一緒にやり抜くの。ひとりの時は本を読んで自分を癒すの。ネガティブな態度や言葉は相手にも影響するし、それは悪という前提認識が私たちにはあるから。」

フィリピンはスペイン、アメリカ、少しの期間日本に植民地化されていた歴史がある。そんな時に同胞同士励ましあいながら独立へと立ち向かったこと、その時の精神が文化として根付き今にも続いている、と彼女は言っていた。

そしてその中で多くのフィリピン人は幸福を見つけ出して踏ん張っている。

ブラックな働き方がよいとは思わないけど、不便さが残るからこそ「何のために働くのか」「しんどくなった時励ましあえる直接的な信頼関係があるか」が手触りを持って感じられることは素敵だなと思った。

ハードな働き方でも毎日を素直に前向きに生きているフィリピンの人々の人生に対する態度から、大きなインスピレーションを受けた。

私がたまにモチベーションを失った時に、たくさん素敵な言葉をかけてくれるフィリピンの人々がたくさんいて、彼ら彼女らは「言葉の力」を蓄えていた。

不便さが故に、自分たちの満たし方をしっかり知っていたのだ。

人に依存したくなることもあるけど、それは一時的な効果しか生まず、すぐさま虚無感に襲われる。それでも、人とのつながりを失わないために、電車の中でも歩いている途中でさえも、便利なスマホを手に、その画面に必死になる日本人の姿が思い浮かんだ。



実は帰国当日のギリギリまで、スーツケースをどうにか自分の手で日本に送れないかと奔放していた。

そこで私を乗せてくれた運転手のおじさんは、コロナの影響で乗客数も激減し、これから生活費も苦しくなるとのことだった。そんな中で、「料金は払いたいだけでいいよ、とにかく思い当たる配送業者を回ってみよう」と言ってたくさん可能性を模索してくれた。

さらには、「日本に帰られなくなったら、僕のファミリーのとこに来ればいいよ」と言ってくれたのだ。


多くのフィリピン人からもらった無条件の愛が、今でも私の中で強く残っており、だからこそ、帰国後の逆カルチャーショックに絶望しそうにもなった。

それでも日本でも、自分が幸せでいられるような努力をしたいと思うようになった。


シアトルで感じられなかった私の充足感は、フィリピンで満たされたのだと振り返って気づく。

この感覚、大阪や東京では得られないけど、地元の青森や、徳島では得られた充足感に少し似ているような気もする。

上手くまとまらないけど、フィリピン生活が私の価値観を揺さぶる出来事となったことには違いない。

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