外部不経済

というものがあるじゃないですか?
もっと嫌な言い方をすれば「収奪モデル」
自分たちは真っ当な商売をして利益を得ていると思っているかもしれないけど
その実、見えない社会的資本を掘り崩してお金に換えている、みたいな

そういうことを考えると、SDGsみたいなお題目で、他団体の社会的な活動に利益の一部を還元するのは、当たり前なことなのではないかと思うのですよ
もちろん「それをお題目として、さらなる収奪に走る」みたいなことはあってはいけないけど

エッセンシャルワークという言葉で可視化されたように
社会にはお金にならないけれども、お金を生まないけれども大切な事業ってのがあるわけですよ
例えば言論活動とか、社会啓蒙活動とかに類するようなものもそうだと思う
それを推進するにあたって、直接民主主義のように、その直接の享受者からのみお金を集めて運営しようとするのは違うのではないか?と
そもそも外部不経済のために、それは生じたものなのに、不利益を被った者からのお金をメインにそれを回そうとするのはどうなのだろうか?と

具体例を挙げる
パワハラにより精神を病み会社を退職しました、これは会社という事業活動が生み出した外部不経済
それからの回復の費用は、個人で(保険医療はあるものの)捻出しなければならない
そして、そうした社会状況を変えて精神医学を一般の人に啓蒙しようというとき、その費用は患者たちにのみ求めるべきか?
ということ
それを広く一般にどのような方法で負担させるかを含めて、「啓蒙活動」なのではないか?

「困っているんだから自分たちで……」と言うなら、弱者は弱者のままにしかならない
その中での比較的強者が、弱者にさらなる負担を強いるような方向はいかがなものか?
と考えるわけですよ

例えば私
自分の身体からの学びと心の学びのために月5万弱を費やしているわけですよ
これは私にとっては日常生活を送っていくための必要経費だと思っています
その原因は過去の会社だの親だのに求められるんだろうけど、それらが責任を認めて金を払ってくれるわけじゃないから、自分で何とか捻出してます
でも私にそのサービスを提供してくれている側からしたら、そのお金は大した金額にはならないわけですよ
個人から直接お金を集めるには限界がある。双方にとって
(まあ保険診療じゃないというのもあるんだろうけど)

このように、社会の仕組みは
収奪したが勝ち、そして
弱い者により負担を強いるようにしかなっていない
そこをもっと考えるべきではないですかね?>某Dr.
社会問題を扱うなら