平等原則

「個人のコントロールの及ばない要因によって生じる格差は是正すべき」

基本的には大大大賛成な考え方なんだけど、どこまでが「個人のコントロールが及ばない」とするかには、社会的な理解ってものの醸成が必要よね

シューカツみたいな、スタート時点での格差は、比較的理解されやすいんだろうけど
その後に関しては、実質的に選べなくても「自己責任」ってなりがちだよね

私だって、今自分が認められてないから
「それは差別だ!」と言いたいのであって
他の人が別なそれを主張しだしたら
その人と自分の差異を温存したくて、「それは自己責任だよね」と言いそうな気がする……

言い訳がましく主張するのは嫌だけど
「理解」はされたいなと思う
ああ、同情されて頭下げてでないと、そこには入ってゆけないのか
どうして、ここは「わかり合う」の応酬ではできていないのか
私自身でさえも

「何か」を証明する客観的な指標があったらいいのにと思いつつ
それがないからこそまだ自由が保たれているんじゃないか?とも思う
ああ、自分の中に棲む他人
この目がなければ自由に生きられるのにと思いつつ
私は客観的な指標を捨てられない