AIがつくる社会

図書館から借りた本の要旨をテキストでメモしながら夢想する
ああPCの予測変換ってスマホよりも劣るよな
スマホだったら、多少打ち間違っても候補出してくれるのに
それにこれまで打った文章の文脈が読めてたら
この文字がこの漢字になることもないだろうに……

今、私は本という他人の思索をなぞってテキストに起こしているのだけれど
これが自分の思索だったとしたら
今やってるみたいに自分が考えてることを入力していくんだったら
私のPCはその元になった文章や私の志向性をすべて掴んでいるはずだから
(すべてPC経由のデジタルな方法を元に思索を紡いでいる場合)
私の代わりに私の頭の中を表現することもできるのではないか?
私が打とうとするその文章の先を
「そうそう! この言葉よ!」って紡ぎだすこともできるのではないか?

そうなれば、今は単なる過渡期で
他人の文章や漢字の間違いにいら立つようなこともなくなるのか?
そして、自分自身も
漢字や正しく文法を覚える必要がなくなるのか?

しかし
当初のインプットは自分自身であるはずである
最初にインプットされる自分自身、その趣味趣向等がなければ
AIはその先を推測して提示することはできまい
本来なら

じゃあその「自分自身」は、いったいどのように形成されうるのか?
どのような方法を使えばそれができるのか?
例えば文章を手で書いたり、膨大な漢字を覚えたり
そういう無駄なことも、多分、今の私を形作る基礎になっているはずである
文献を当たって得た知識は、単なるサマリーではなく
自分の経験や理解力のフィルターを通して、自らの血肉となり、違った価値を生み出しているはずである

そういうことが、不正確で、不十分で、要らないとでもいうのだろうか?
人間の記憶や理解には限界があるから
でも、抽象化や一般化が、AIにできるはずもあるまい
そこには知識はあるかもしれないが、「知」は生まれない
単なる蓄積であり、将来への志向性はない

もしくは、自然科学というものがもともとそうだという議論があったように
不完全な「人間」など要らないということで
AIを含む世界は、私たちの経験や思索とは別に存在することになるのではないだろうか?
ほら、今も
実際には基づかない議論とハウツー
それが真実であるかのように溢れかえっている
若者たちはその中で、自分を発見する契機すら見つけられずにただただ溺れている

人間の頭脳とは何で
私たちはいったいどのようにそれを使うべきなのか
きちんと考えねばなるまい
ひとりひとりが

でなければ、そこに「生」はない