温かくて、優しくて
おはこんばんにちは、蜜柑月です。
深夜の1時に布団に潜りつつ書いております。多分全ては完成しないと思いますが…。そんなだから視力悪くするんだよ、という自分の内なる声も聞こえてきそうですが、一旦置いといて。
さて、私にとってn番煎じのテーマ、「寂しさ」について書いていきます。今日はいつもよりほんのり前向きで、より深く、深く考えたつもりです。
今、現在進行形で、そう遠くない未来に確実に訪れる別れを予感して寂しさがどんどん増幅していっているのですが、やはり、寂しさには慣れないものですね。
今年の冬から春にかけて卒業という時期の下で散々感じてきたし、去年の夏の入りにも部活の引退という形で経験してきたはずなのに、今感じている寂しさも負けじと強く、胸がぎゅうと締め付けられる感覚がします。
で、寂しさってなぜ起こるんだろう、と考えてみたとき、1番奥底に隠れているのはすごく単純、だけどものすごく温かい感情から来ているのではないか、という結論に行き着きました。
「離れたくない」「もっと一緒にいたい」という気持ちが恐らく寂しさの大きな源。じゃあ、別れが近づいたときどうしてそう思ってしまうのか?、つまり、その寂しさの源のさらに奥深くにあるものは何か。
ありきたりかもしれないけれど、それは「愛」ではないか、と思うのです。
「愛」ってloveの感情、いわゆる恋愛における好きの感情というイメージが一般的に大きいのかなぁ、と私個人は思ってます。
それもありますが、ここではそれ以外にも、尊敬の念、感謝の気持ち、慈しみの気持ちなど、広い意味で捉えていただければ、と思います(そう考えると「愛」の定義って難しい……)。
私の現在感じている寂しさも、過去に感じた寂しさも人に対するものですが、その一人一人に私とのエピソードがあって、相手はどう思っているか分からないけれど、少なくとも私側に何かしらの愛がある(あった)から寂しさを感じるのではないかと思っています。
ただ美化して目を逸らしているだけかもしれないけれど、そう思うことで、普段あまり好きになれない自分にも愛があるのだと、少しだけ価値を与えてあげられる気がするような。
何より、そんな愛から来る寂しさを感じられるほどの人に出会えたことが何よりも嬉しくて、尊くて、だからこそ失うのが、居なくなるのが名残惜しくて。
言葉にしきれないほどたくさんの想いが──。
そして、何よりも。
私のnoteでは本当にくどいようだけれど、今を大事に生きることが1番大切だと、特に寂しさを感じたときは常に肝に銘じています。
未来を憂いてしまうだけでは、後の自分が辛くなってしまうのだろうな。なんでもっと「今」に集中できなかったのか、ときっと後悔する。
それならば。やれることは全て、やっておこう。
話したり、教わったり、一緒に何かしたり。全てはできないけれど、全てやる。うん、大丈夫。
寂しさという感情は不思議なもので、考えを突き詰める度に新しい捉え方が出てきてちょっとは前向きに捉えられたりするのに、いつまでたってもその苦しみには慣れない。
でも、慣れなくてよいのかなと思います。
慣れてしまえば、今を大切にできなくなるし、奥にある温もりを感じられることがなくなって、それこそ「寂しい」。
うだうだと長く引きずって重い内容になってしまったかもしれませんが、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
ではまた。