客観性の落とし穴:村上 靖彦
Twitterのおすすめ欄に流れてきたんだよ。覚えてる。
ちょうど上司と「最良と最高は違う」って話をしてたから、
何かいいヒントがあるといいなって思って読んだ。
思ってたんと違った。
「数字は嘘をつかないが嘘つきは数字を使う」とはよく言うじゃない?
そんな話を期待したんだけど、この手の話は統計学をやるのが早そうだ。
筆者の生徒さんは研究に「客観性」を求めるらしい。理系なら大事だね。
再現性がないデータはデータじゃない。
だからといって数字以外を切り捨てるのも良くない。
症例報告なんて「こんなのがあったからこういう治療したよ!」って話が書いてあるんだから、生徒さんたちが求める「客観」とは違うかもしれない。
人文系となるともっと難しい。
数字で示されることなんてあんまりないから、丁寧なインタビューと大量の文献で「客観」を補っていく。質を量で担保するイメージかしら?
教授に向かって「客観的なデータあるんですか?」とか言うような人たちなので、「量より質だ」とか言いそうだけど。量は質だよ。
量があって初めて質になる。
大量に並べるからこそ「ここは同じ」「ここは違う」「これは別のもの」「これは別のものに見えるけど外れ値なだけ」がわかるようになる。
必要なのはその前提理解であって、数字と標準を大切にしている人を「客観性に執着している」みたいにスタートされたのはあまり好きじゃなかった。
言いたいことはわかるけど、
「知識がないからこそ、こう言う質問が出るんですよね」って切り捨てて、
自分は「分かってる側」と思いたい人を見かけたばかりなので、すっごい癪に触った。私怨です。相手の土俵に降りるのが教育者の仕事だろ。
まぁいいや。
統計も使う式を弄れば狙った有意差でるよね〜とかそう言う話ではなかったよ。ってことね。
取り扱われるのは主に「社会的弱者」とされる人たちの話。
社会生活をするにあたって障害がある人や生活保護受給者、鬱で動けなくなった人、ヤングケアラー。
この辺りで、「あ、この本がベースとしている客観性というものは、私が思う客観性とは違うかも」って気がついた。
「障害者は社会の荷物なのか?」「津久井やまゆり園の事件はどんな流れ、思考の元で起こったのか?」「生きる権利」とかそう言う話を「社会の被害者」側から書いている。
生きていちゃいけないのか!とか。そう言う話。
最近じゃインスタとかで、重度の障害持ちの子供とか、きょうだい児とかの日々をリールで見たりもする。施設の中でやっている作業風景とかもね。
そう言う意味では理解こそ深まらずとも、寛容になってきていると思うけどな〜って思うんだけどね。多様性の時代だって叫ばれるだけあって、色々なものが許容されるようになった。子供をエンタメ商品にするのはいかがなものかと思うけど、それはまぁ別の話だし。
私もね、いつだって障害者側に行くタイプの人間。
とってないけど、診断書があるから手帳一歩手前の人間。
診断書の有無に限らずとも、いつ、どんな理由で「弱者側」に行くかは分からない世界。いつだってカモのつもりで生きていかないと、簡単に足元をすくわれる。
以前より寛容だって言ってもまだまだ、足りないのは分かる。
でも目に見えて被差別者出会ったが故に、今は保護下にあるとも言える。
フェミニズムは勉強してないからわからないけど、目に見えない、形式上は対等な関係になってしまった女性運動の方が問題は根深いような。女の人権だって、平塚らいてうからずいぶん時間がかかってる。渦中の人はたまったもんじゃないけど、ありえないようなスピードで世界が変わってることにも注目したらいいんじゃ?って思うけどな。
保証やお金の話なんかは、資本主義でその主張はちょっと厳しいんじゃない?と思ってしまった。共産主義だったら?もっと無理だよ。
AIの発展が進むと、最終的には賃金が下がる説があるらしい。
それだけが原因じゃないけど、今の日本はある程度の大学を卒業した人がある程度の会社に入ったとてギリギリ生かさず殺さずの給料しか手に入らないと言われている。
だから「自分よりも働かない(その実、働けないだとしても)人が「楽をしている(ように見える)」のは反発が大きいんじゃないかしら。お金がないから生活できないとかその手の話は、もう行政の問題なので割愛。障害の有無に限らず、みんなお金ないって言うんだもん。必要最低金額を計算して訴えよう!以上。
「健常とされる人と同等の権利を」はわかるんだけど、「権利」と「実際」はかけ離れているわけで。権利はあるよ。感受できてないかもだけど。「誰も障害者はいない方がいい」とか大声で言わないでしょ。言う人がいても、しっかり不適切な加害発言として処理される。
その現状を俯瞰で見ても「権利がない」と言うのであれば「どういうところにそう感じるのか」を論理的に出さないとだめだろう。元々がマイナスなので優遇してくださいってわけにもいかないし。弱者こそ強者みたいなノリこそ減ったものの、そう言う時代が一瞬でもあったせいで世間の目が厳しくなるのは仕方がない。健常者に負担をかけていい理由にもならない。
ちゃんと語るのであれば、効用モンスターについて整理をつけてからじゃないと。正義のゴリ押しに見える。無意識下の差別を強調したいばっかりに、やや強引な論理展開に見えたな。そこにあなたのバイアスがあるんだよって言われたら、そうだねとしか言えないけれど。
考え方が合わなくて、飛ばし読みしたから、もしかしたらちゃんと拾えてないのかも。
そもそも論、西成とあいりん地区の話の話がメインだったけど、どちらもそれぞれのことを分かるくらいアングラ方面に興味があるか、関西に詳しくないと話進まないのでは???って気持ちにもなったな。あそこは特殊って言い方良くないけど、そう揶揄される場所ではある。最近もエモ消費で炎上してたね。あれ炎上するのTwitter (X)だからだと思うよ。
AIの発達によって「見えるもの」「客観的な指標」の幅が随分と広がった。今までは個人の体験談としてしか処理されなかったものが、「データ」として生きるようになる過渡期に私たちはいる。本を書くのにかかる時間を思うと、この辺りまで拾えないのはしょうがないのかな?
ハイスピードで世界が変わっているからこそ、定義決めは大切。
一読の価値はあるかもしれないけど、高校とかで「語り部」さんから戦争体験を聞く授業があった身からすると、目新しいことはないかなって気持ち。言葉遊びも大好きなので、話していく過程で同じ言葉でも持つ意味が変化したりとか、普段でもよく感じてる。
あと質問紙調査とかの自由記述欄ね。ちゃんと大学を研究の場と定義して、ちゃんと勉強して卒論を納めた人なら、「数字やデータが全てじゃない」ってことはわかるはず。
いろいろ考えるいいきっかけにはなったよ。
メイドインアビスのナナチとミーティーの回を読もう。
「死にたいも言えない人間は、生きる権利を活かせない」が良くわかるよ。
「死ぬ権利」なんでものはなくて「生きる権利の放棄」だって解釈、腑に落ちないけどお腹には入れてある人の感想文でした。
おわり