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近代絵画の終わりの終わり。

ふと、あの何イズムかもわからない、真っ赤なチャールズ三世の肖像画は、近代絵画の終わりの終わりを示しているのではないかと思った。
蝶々は象徴的表現で、その解釈にも裏表があるのだろうが、
あの写実の線上にある顔と手だけを残した全体の赤さは、背景の色が服の色に侵食するように、外部と溶けあっている。
生命力を示すなら、よろしくお元気で。なのだろうが、正装と背景が同色なのは技法的な肖像画の伝統からいっても気味が悪い。

日本の美術評論関係者は、知の欺瞞論争や手前勝手に変質させた反知性主義への懸念を盾にしたり、
もっと単純に、終焉論そのものにうんざりしてみせる前に、
なぜだれも決定的な終焉論が書けないかを、なぜそれを書いても無意味であるかも含めて問うべきだろう。つまるところ、自分たちには利殖の論理しかなく、問える主体ではないとどこかで自覚しているから権威の強調に走るのだから沈黙するしかないのである。

たとえば、日本人によるラッセン批判がつまらないのは、私が行っているのは知的営為です。というためのダシに使っているからで、
ラッセンが自身の活動を通して絵画を商品だと言い切っていることと、学術機関発のファインアートとの比較から逃げているからだ。
悪い商売との比較ではいい商売にしかならず、では、あなたと懇意のお知り合いの芸術活動は、本当に商品ではないと言い切れる絵画なのですか?となってしまい、
これだと、総動員程度の用語も、総動員と言えなくなってしまった文壇の、暗号めいたほのめかし合戦となにも変わらない。

わざと不吉に仕上げたのでなければ、象徴的表現は、絵画を介して未だに悪趣味な貴族に奉仕しうることの証拠となる。
フランス式の近代美術の意義を、常識以上に信じる者にとっては、描かれたのがフランス大統領でなかっただけ救いとなるだろうが、
あの肖像画を介して美術そのものに対して実際に起こっているのは、国ごとに異なる近代の表出なのだ。

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