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手法の限界面から見た環境哲学、ドイツ新実在論。

思想哲学には著述そのものが持つ能動性が不可欠であり、出力のための入力と、出力されたされたもののための入力の関係しかない。
会話で言えば目と口の能力しかなく、耳を傾けるというときの、"『その場の耳』では無さ"が限界として常につきまとう。

そのような目と手と口の仕組みで、無理に耳の役割を作ろうとして、しゃべる目をやっているのが、最近のドイツの思弁的実在論や再帰的に強調される環境哲学の潮流らしい。

マルクス・ガブリエルの世界を例に取ると、彼の実在論では世界という異なる文脈を多元的なものであるとし、それぞれが持つ意味的な価値を並列化させることで文脈そのものを無効化する傍らで、
自らが真に無価値化するのを避けるために、文脈が持つ価値的な空白地帯を意味の場を名づけ、内容を与えることで世界を舞台上の一役者として等価に仕上げ、
等価のまま循環させるため、世界そのものを語り尽くせぬが故に存在しないとし、世界を飽和させている。
これが、語る耳、しゃべる目と思わせる、総体的な印象の回路図であり、現代の自然哲学や思弁的実在論における叙述の正体だ。

しかし、世界観から意味的な効力が消えたのはむしろ欧州なのではないだろうか。
耳の穴として、啓蒙主義の空洞化を啓蒙しているようでもあり、世界の無意味化に引き込もうとする求心力があり、実際には、聞く耳がありますというなにか言いたげな目くばせなのだろう。

仏教を進めるつもりはないが、これが西洋哲学なりの、仏教の概念と比較可能な、一即多、多即一や、森羅万象を一とする空の代替なのだろう。
マルクス・ガブリエルの論理では、多即空、一即無限であり、世界たちを有を生み出す空とすることで、
彼の世界の実在性は、総体的評価が可能な森羅万象と化すのである。


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