見出し画像

自然主義とロマン主義。

日本文学には自然主義派とロマン主義派の論争があり、どこで読んだかは失念したが、カミュの異邦人が発表されたとき、その両派に歓迎した者があったという。
母親の葬儀に出ずに女と過ごし、成り行きからアラブ人を刺し、法廷で夏の太陽のせいにする。この不条理には、たしかにロマンと言えばロマンがあり、リアリズム的な性格がある。
描かれた不条理の、為しえぬ不善を描いたところがロマン的であり、描かれたのが簡素な不善であることが自然主義的なのだろう。

少なからず作り物の現実というものがあり、確かにロマン派は広義のリアリズムである自然主義に対して弱く見え、いかにも議論に負けそうであるが、自然主義は自然主義で、対処療法的に現実的表現によって現実から逃避する性質がある。
食べ放題だといいながら食べられない現実があるとき、雲は雲、綿あめは綿あめ。と言うのは、作り物として不全を起こした現実の、現実を受け入れることで、作り物であることを不問にしているからだ。
雲が綿あめだったらなぁ。と空を見上げる方が、彼らの泣き言のような発想が現実の嘘に対置されており、主体的に作り物の現実を生きる感情をきちんと白状しているのである。
志賀直哉の暗夜行路に顕著だが、日本の自然主義作品の描写のための描写には、こうした、作り物の現実に対する決心がないのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?