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他人の親子とシェアハウスで暮らすとわかること

以前、誰かと暮らすということに関してノートを書いた。


これは、私が何ヶ月か前まで住んでいたシェアハウスの話だ。そこには1人の母とその息子が住んでいて、わたしは一つの家族と共に暮らしていた。

いつだったかこのことはnoteに書いたかもしれないが、ふと思い出したので再度書いてみることにする。

私たちは、1人の父親と1人の母親から生まれてくる。人それぞれ事情はあれど、人にとってこれは変わらないことだ。父、母、子どもの3人1組が無数につながって、無数の人が同じ星の上で暮らしていることは、自然なこととも言えるし、不思議なことのようにも思える。

3人1組のあり方も、無数だが私たちはほとんどの場合に自分の親と自分の関係性だけを知っている。他の親と子供がどんな関係性なのか、覗いてみたりすることはなかなかない。そんな中でわたしはあの親子と暮らせて良かったと思う。あの親子と暮らしながら、様々な関係性の中に紛れ込んでいることはすごく面白かった。

わたしが暮らした親子は、母とその息子あつさん。母は天真爛漫で好奇心旺盛、寝るのが早くて、特技は洗濯。最近はみんはやにハマっている。趣味は畑いじりと読書。あつさんは、野球とミスチルが好きな小学校の先生。料理が上手で、先生になる前は5年間東北のNPOで高校生の支援などをしていた。そんな2人は、立ち姿と骨格がよく似ている。2人とも顔が小さくてすらっと細くて背が高い。あつさんは、小学校から帰ってくると毎日子供の話を面白おかしく母にたくさんした。私は、自分の親とめちゃくちゃ話すタイプではないんだな、とあつさんをみて思った。

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(私はこの写真が自然ですごく好きだが、母はもっと可愛いのにしてと怒るのだろう。そんなところも愛おしい)

自分の親と自分の関係性は、相対的にしか捉えられないので、シェアハウスで他の親子の関係性を覗き見できるのは珍しいことだと思った。正しさとか、そういうものを見つけるためではないが、当たり前だと思ってたことが当たり前じゃないと気付くこともある。

例えば、子供が何をするにも親の許可が必要な関係性もある。髪を切ること、遊びに行くこと、行き先、遊ぶ相手、親元を離れて暮らしても、事細かに親にずっと知らせている人もいる。その人はそのことが当たり前だと思っていた。

一緒に住んでいた親子の他にも、同居人の親、自分の親がシェアハウスに遊びに来ることもあった。友達同士みたいな親子や、他の親子の前での自分の親をみたりするのは、自分の親子だけを盲信しない貴重な機会だった。

親の機嫌を伺いながら生きる関係性や、その他の様々な親子のあり方を、ひとつの親子を起点に、少しずつ知ると、同じ関係性は一つもないが、自分と親との間に起こっていることはどの家庭にも起こっていると勘違いしていたことに気づく。それだけ、親子というのは孤立しがちな比較しづらい関係性でもあると思った。

私自身の母は、最近変わった。自分の身の回りで起きたことを言葉にして、その時の自分の感情をしっかり捉えて、それが過去のどんな経験やシーンに紐づいているのかしっかり理解して私に話してくれた。

以前、あつさんと話していて印象的だったのは「1番手っ取り早いのは他人を変えるよりも、自分を変えること」という話。その話を自分の母と話していて思い出した。母は自分の在り方でメッセージを伝えてくれた。母であれど、母は他人で母の人生を生きている。しかし同時に他人であれど私のたった1人の母で、わたしは「この人がいるからなんとなくきっと大丈夫な気がする」と、ずっと信じて進むことができる。その母が、今も変化し続けていることを誇りに思うと同時に、他人の親子の関係性を知らなかったら、自分の親を捉え直すこともなかったと思い、感謝している。

他人の親子のと暮らすのもいいものだ。

私が子供として生まれるのはもちろん、今まで経験したことのない人生で初めてのこと。それと同じで、親になるのもみんな初めてで、しかも一度限りで、親だって親にされたことと、親と自分の関係性しか体験できない。





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