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そうよわたしは、サソリ車の女。

日々、なにかしら買って生きている。だけどその多くは感覚として「消費」に近いものだ。

たいてい、必要なものが手に入った時点で、それまで持っていた興味関心はすっと冷めてしまう。刹那的だなんて表現すら畏れおおいくらいの、薄い愛情でモノを買っている。そんな気がする。

それでも心底買ってよかったと実感することはある。わたしにとってはクルマがそうだ。

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【ABARTH(アバルト)】というイタリアの自動車メーカーが販売する【124 spider(いちにーよん すぱいだー)】という車種を買った。

ここではスペック云々やドライブフィールがどう良くてとか、そういうことが書きたいわけではない。「買ってよかった」と素直に思えたよろこびを記してみたい。


だれにでも買い物の失敗はあると思う。キャベツとレタスを間違えたとか、酔った勢いでポチった商品が後日届き青ざめるとか、だれかのそういうエピソードを聞くのはおもしろい。共感できるし、ちょっとハラハラするし、たくさん笑ったほうがその失敗も成仏できるような気がする。

だけど自分がした失敗のこととなると、思い出すたびに気分が沈む。心の中にある苦々しさは時間が経てば経つほど熟成されていく。

その当時、現場で、明確に「失敗と判断した」というより、物理的だったり時間的にすこし距離を置いたところでぼんやりと「失敗に分類されていった」感覚。昔の恋人が美化されるように、後悔は頭の中でその重みを増すものなのかもしれない。

数百万円という、どこか他人事に思えるくらい、個人的にはずいぶんとリッチな失敗をしたことがある。くだらぬ失敗は数多あるけれど、このことだけはどうにも忘れがたい。ふとしたときに思い出して、いまだに新鮮なかなしさをおぼえる。

でも、じゃあわたしは本当に、買い物の失敗がかなしいのか?

たぶんそうじゃない。自分に嘘をついたことがいちばん引っかかっている。


自分自身がなにを大事にしていて、どういう考えをもっていて、描く未来はどんな世界なのか。そういう価値観よりも、選択としての客観的な正しさを優先したとき、いつも失敗する。

スタンダードだから、無難だから、人気だから、実用性があるから、飽きがこないから、経済的だから。選択肢をもっともらしくする理由付けはたくさんある。

だけど、それらは誰にとって都合のいい話なんだろう。あなたのスタンダードがわたしのスタンダードとはかぎらないし、あなたが飽きてもわたしはまだ気に入っているかもしれないし、あなたの支払える金額がわたしにはしんどいときもある。

わたしの場合、過去における買い物の失敗は起こるべくして起こってきた。心からそれが欲しいと感じていない、納得はできるが楽しくない、手に入れた後に広がる未来を想像できない。そういう買い物をしてきてしまった。極端にいえば、いらないモノに対してわざわざお金を払い、みずから後悔を買ったようなものなのだ。

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いま、自分のクルマが心底気に入っている。わたしのクルマに対して否定的な意見を言う人もいるけれど、そんなのは一切気にならない。

「2人しか乗れないし、将来家族ができたときのこと考えてないの?」
「素人がMT乗ってもクルマ壊すだけだよ」
「ぜんぜん荷物が載らないじゃん」
「よくこんなうるさいクルマ乗ってられるね、耳おかしくならない?」

好きだという気持ちは、人を強くすると思う。買い物に失敗しまくっていた頃のわたしが同じことを言われたら、いとも簡単に心が折れていただろう。

だけど今はちがう。ちゃんと、主語はわたし。実用性? 経済性? それ、誰にとっての良し悪しですか? わたしにとっていいクルマなら、それでいいじゃん。そうよわたしはサソリ車の女です。お気の済むまで笑うがいいわ。

こういうことが言える。現実ばかりに目を向け、頭であーだこーだ考える癖がついて、いつのまにかよくわからなくなっていた「"好き"こそ最高の燃料だろ、走れ、走りながら考えようぜ」みたいな感覚を久しぶりに味わえた。

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「買ってよかった」と感動できるのはつまり、自分自身に対して素直でいる姿勢をふたたび取り戻せたからじゃないかと思う。それは買い物にかぎって大事なことというわけではない。

決断が必要なあらゆる場面で、結局いちばん耳を傾けるべきは「内なる声」ではないのかなと。

うれしいほうへ、たのしいほうへ。どこまでも転がっていきたい。


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