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おじいちゃんの「悩みをぶっとばす樹」


「りさ、これは悩みをぶっとばす樹じゃ」


ある日、祖父が庭にある樹を指差しながら私に言った言葉である。


10年も前になるだろうか。当時の情景は今でも鮮明に覚えている。

特段会話をしていたわけでもないのに、庭の樹を見渡していた私の背後から歩み寄り、かけてくれた言葉だった。

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<祖父が指差した樹のイメージ>


祖父と私の会話は決して多くない。

祖父に電話をしても、すぐに祖母に代わろうとするし
座っているといえば、食事のときと好きな時代劇を見ているときが多い。

何かをしていないとじっとしていられない性格は干支からくるものなのだろうか。家にいることが少ない。(決して祖父と仲が悪いわけではない)

かくいう私も同じ干支で、常に動いていないと落ち着かない。

そんなこともあってか、会話数は多くなくても、どこか通ずるものがあるような気がしている。

それに、どうしてか祖父の言葉には力が漲っていると感じる。
祖父に言われると、心に響く。


「悩みをぶっとばす樹じゃ」という言葉も、心に残っている言葉の一つで、今も考え事をすると思い出す。


祖父が指差した樹が本当に「悩みをぶっとばす樹」であるかどうかは関係なくて、悩み事があれば樹と向き合って問いなさい。と言われていたのかもしれない、と感じた。


樹を見上げていると、私よりはるか前に生まれ、地に根を張り世界を見守ってきたのだと考える。雨風が強い日も、雨量が多くても少なくても、太陽が照りつけていても、どんな環境であろうと樹はそこに立っている。

立っているし、まっすぐお天道様に向かって伸びている。

加えて、他の住処になったり、支えになったりもする。

樹を見ているだけで、自然にある個々の存在がそれぞれ支え合っているのが想像できる。


樹は、樹として生きていて(役目を果たしていて)、生きるために生きている(樹は樹である)。

そう思うと、自分の中の悩み事がとても小さなことのように思えてくる。


当時の祖父がどういう思いで私に「これは悩みをぶっとばす樹じゃ」と言ったのかはわからない。

だけど、私が樹を見上げて感じることを文字にすると、記述した通り。
それゆえ、祖父の一声は今の私の考えに至るきっかけになったのかもしれないと感じる。


今、この樹はもう庭にはいない。

数年前、隣に植えてあった柑橘の樹を切った際(諸事情で)に、一緒に切ったのだそうだ。

今も、祖父の庭に行くと、そこにあったこの樹のことを思い出す。


その樹の存在は私の心の中にずっとあるし、物質的な存在はなくても、心の中で生き続ける・活き続けるというのはこのことなんだと、私は感じる。


09.22.20
ふく

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