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被写体



久しぶりに文章を書く。

私は自分がとても嫌いだ。

幼稚園の時から、もうずっと。

何でこの体に生まれたのかなって思う。

今日は特別むくんでいるから目は腫れぼったいし指の動きは鈍い。
今日は自分の顔を特に見たくない日。
せっかくまつ毛パーマの予約を入れたのに、
思った出来にはならない。
仕方ないよ、元がブスなんだもん。
あーあ、自分が大嫌い。

何でこんなに嫌いなのか分からないけれど
物心ついた時にはもう嫌いだったし、
今更根底からまいんどちぇんじすることは無理。

でも。
前回文章を書いてから、
明らかに一つ変わったことがある。

写真に写ることにハマったのだ。

心の中は複雑で、
めちゃめちゃブスだと思う自分がいる反面、
実はかわいいのではないか?
という希望を持つ自分もいる。

めちゃめちゃブスだと思う自分しかいなくなってしまったらそれこそ絶望して自殺しちゃうもんね。
承認欲求は生きていくのに結構大切だと思う。

写真に写った自己像は、時々自分の想像を遥かに超えてかわいい時がある。

その奇跡的なめちゃめちゃかわいい瞬間が、写真の中に永遠のものとして固定されている。

何時間でも何日でもずーっと眺めていられる。

私は自分が大嫌いだけれど、人一倍自己愛が強いのだ。
矛盾するようだけれど。

かわいい自分は夢を見させてくれる。

写真に写ることは脱毛エステやマッサージ、美容院やそれこそまつ毛パーマサロンにいくことなんかよりずっと、自己肯定感をマシマシにしてくれる。

だから写真に撮られたいし、その像について、かわいいと認められたい。

拗らせた幼稚くさいブスであることは分かっている。でも、夢を見ないと、現実はつらくてやっていられない。

持て余している自己愛と、それを激しく否定する超自我の狭間で、かわいく撮られた一枚はいっときの合意と平穏をもたらしてくれる。
前向きになれる。
自己の乖離が小さくなった時、初めて次に進めるのだ。


ブスだと思って前に進めなかった幼い頃の自分はかわいそうだなと思う。

善人でも聖人でもないから、そういう風に私を追い込んだ環境については一生恨んで生きていくと思う。
けれど、もうもはや私はそこにはいない。

被写体である今は24歳までの私とは明らかに違う。
そう思うから、大人になれる。
でも本当は、いつか、幼かったかわいそうな私についても、受け入れて表に出せる時が来たら良いなと思う。

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