短編小説『第三者』

夕焼けの海って甘い匂いがするじゃない?
 名前も知らない、五つは歳が下であろう女は、腰からしっぽが垂れ下がっていないのが不思議なほど軽やかな足取りであちこちに伸びる影を踏みつけていく。
 そのあとに「ハチミツみたいだから」とでも続けばよっぽど可愛らしい子供のように見えただろうに、「太陽って甘いもんな」と口にするので私はほとほと扱いに困り果てていた。
 自転車のタイヤがからから石に当たって跳ねる。どこかに停めればよかったものを、手に何か握るものが無ければ落ち着かない性分の私はハンドルから手を離せずにいた。それに、手ぶらでサイクリングに飛び出した私にとっては自転車を取られては何もない。
 自動販売機の前で蟻の行列を踏みつけていた彼女に五百ミリリットルの炭酸飲料を買い与えてからそのまま離れるタイミングを見失った。私はつり目というやつで、細めるとそこそこ怖いと評判だった。ゆえに子供に懐かれる経験など一度もなく、浮かれていたのかもしれない。
 浮き世立った話し方に反して見た目はごく穏やかそうな女だった。それと三ツ矢サイダーで喜ぶところと、とにかく色んな顔を持っていた。「この年齢のそれらしい人」を適当につまんでくっつけたキメラみたいで、偏見以外で人を見られない眼鏡を持つ私にとってはところどころ違和感を覚えるのがストレスだった。
「あなたは何が怖い?」
 そう急に振り返る。だが何故かその言葉には違和感を感じなかった。
「人かな」
 特に考えずに答えると、「みんなそう言う。自分だからはっきり言うんだからなって感じで」と不機嫌そうになった。
「私は怖いものないよ」
 はっきりとした言い方が、きっと本心なんだとわからせるみたいだった。怖くないからわからないらしい。
 夕暮れらしい空は沈み、夜の気配がする青紫が滲みだしていた。私は空のこの色が好きだった。人の暗くて一番信用のおける本心の色によく似ている。
「おばけとか、幽霊とか、ありもしないものを怖がってる。悪魔とか、神とか、怖がる自分が好きなんじゃないの?」
 彼女は数時間話している中で、比較的一番声を荒げた。そうかもしれないねと答えながら頭の中では夕食にコンビニで買うおにぎりの具を想像していた。構われないことに苛立ったようで自転車をゆすられて、初めてその言葉への感情を見た。
 すっかり誰そ彼時は通り過ぎて、暗い影のかかった顔は、電灯でほのかに照らされている。
「それ以外の第三者だっているのに」
 そう言うと私の顔をのぞき込んで、異質な明かりが灯る瞳で見つめてくる。
「だから、名前つけてよ。人間に、まだ名前つけられたことないんだ」
 自転車のかごを、掴んだまま離そうとしない。もう夏に入ろうという季節だというのに何故か薄寒さに襲われる。
 それでも、逃げようという気だけは起きず、ああ、だからそんなちぐはぐな姿でいるのかと思った。

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