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死んだ恋人に会いにいく 第44話

恋人

 ファミレスから出た車は元来た方角には戻らず、名ばかりの高速道路を自転車に毛が生えた程度の速度で、さらに西へ西へと向かい進んでいた。
「赤ちゃんって……あんなにもかわいいんですね」
 川島さんと別れてからまだ三十分と少ししか経っていなかったが、彼女はそのようなことをすでに五回は繰り返し口にしていた。
「よかったら今度ゆっくり遊びに来てください、って。川島さん、たぶん本気で言ってくれてたんだと思うよ」
 そうでなければこちらから聞いてもいないのに、別れ際になってわざわざ住所と電話番号まで教えてくれなどしないはずだ。

 ――今から約一時間前。
「ぜんぶもう、終わったことですから。私のおねえちゃんもきっとあっちで赤ちゃんを抱っこして、それで笑っていると思います」
 彼女はそう言うと、ペーパーナプキンで手と顔を丁寧に拭いてから立ち上がり、母子のいる向かいの席へと移動していった。
「あの。もしよかったらですけど、抱っこさせてもらえませんか?」
 唐突な申し出に驚きの表情を浮かべた川島さんだったが、すぐに「ありがとうございます」と礼を言い、少女の胸に幼い我が子をそっといだかせる。
「わ、けっこう重いです」
 かつて私も友人の子を抱かせてもらった時に、まったく同じ感想を抱いたことがあった。
 一歳児ともなればもう、十キロかそこらはあるのではなかろうか。
「お姉ちゃんに抱っこしてもらえてよかったね?」
 母親にそう言われた赤ん坊は、自身を抱く見知らぬ少女と傍らにいる母の顔を見比べる。
 その表情といえば、名だたる文豪を彷彿とさせる絶妙さであり、手を顎に当てる様は何かを考えているようにも見えた。
「お名前は?」
「あやです。彩るという字で彩です」
「彩ちゃんこんにちは。すごくいいお名前ですね。お姉ちゃんは茉千華っていいます」
 自身の名を呼ばれたことを理解したのか。
 彩ちゃんはドングリのように丸く大きな瞳を少女に向けると、まるで自己紹介でもするかのように「アーアー」と喃語なんごを口にした。
「……え。今のってちょっと、かわいすぎません? 反則じゃないですか?」
 そのあまりに微笑ましくおかしなやり取りを見た母親は、口に手を当て笑いながら、目からは大粒の涙をぼろぼろと零したのだった――。

「明日さっそく行ってみようと思います」
「それはさすがに迷惑だし、それに絶対に引かれるって。また近いうちに僕が連れていってあげるから」
「絶対ですよ? 約束しましたからね? あとでいいので一筆ください」
 この子と軽々しく約束を交わすのは危険だと、私は改めてそう思った。
「ていうか茉千華ちゃんはさ、お正月に親戚の家には行かないの?」
「お母さんと一緒におじいちゃんとおばあちゃんの家に行くつもりです」
「そこには他の親戚も来るんでしょ? だったら赤ちゃんも来るんじゃないの?」
 昨年の夏のことだった。
 通夜で水守家を訪ねた帰り、高畑が赤ん坊の泣き声を聞いたと言っていたことを思い出す。
「残念ですけど赤ちゃんはいないんです。私が親戚で最年少ですから」
「え? だって……」
 そんなはずなどなかった。
 近親者のみで執り行われていた通夜ゆえに、あのとき家の中に居たのは水守家の親族だけだったはずだ。
「どうかしましたか?」
 高畑はあの時、確かこう言っていた。
『それがまるで産声みたいで、なぜだか涙が出そうになっちゃったんだよ』
 もしかしたら、その泣き声というのは――。
「水守さん……」
「なんですか? 急に改まって」
「……ごめん、何でもない」

 日が落ちる前には渋滞から抜け出したかったが、もはやそれは叶わぬ夢であった。
 進行方向である西の空は暮れなずんではいたが、それもまもなく終わりを迎えることだろう。
「お金、受け取ってもらえませんでしたね」
「そうだね。まあ、なんとなくそんな予感はしていたけど」
 川島さんによれば、高畑はそれなりの額の生命保険に加入していたとのことだった。
 それは母子の当面の生活や娘の学費を十分に賄えるほどで、加えて高畑の両親からも、少なくない金額を慰謝料として受け取ったそうだ。
『私も彼のご両親にお金を返そうとしたんです。でも、どうしても受け取ってもらえなくて。だから自分が同じことをしているのはおかしなことだって、それはわかっています』
 これは川島さんの憶測なのだそうだが、彼が今年の六月になってから自らの命を断ったのは、その生命保険の契約内容が関係していた可能性があるという。
 というのも、彼が契約していた生命保険は加入後三年未満では、自死を死因とした場合の保険金は支払われないことになっていたそうだ。
 そして彼が亡くなった月というのが、まさにその三年目だったのだという。
 もしその通りだとすれば、彼は水守さんの遺書を受け取ってから約十か月の間、自身が犯した罪の重さと向き合い、その愚かさを悔み続ける日々を送っていたのかもしれない。
 だとしてもという気持ちと、だったらなぜという二つの気持ちがせめぎ合い、ステアリングホイールを握る指に力が入ってしまう。
「かなたさん。さっきのお金、預かってもらえませんか? お母さんにはまだちょっと話せないので」
「あ、うん」
 いつかは話さなければいけないが、少なくとも今がまだその時でないのは彼女の言うとおりだ。
「本当にごめんなさい。お願いばかりしちゃって」
「気にしなくていいよ。他にも何かできることがあれば頼ってくれていいからね」
「……本当ですか? それじゃさっそくですけど、もうひとつだけお願いしてもいいですか?」
「なに?」
 彼女はこれまでも何度となく、私に『お願い』をしてきた。
 だが不思議と今回のそれには、以前のような申し訳なさげな雰囲気が一切感じられなかった。
「私も赤ちゃんがほしいです」
 本気とも冗談ともとれる突拍子もないその『お願い』に、頭よりも先に反応した体がブレーキを床まで踏み抜く。
 今が渋滞のさなかで本当によかった。
 それはそうと、現時点で考えられる最良の対応をとらなければ。
 期待に瞳を輝かせる彼女を落胆させずに、尚且つ上手く煙に巻くには――。
「ごめん。いったん持ち帰らせてもらっていい?」

 ようやく渋滞の高速道路を下りることができたのは、夜の帳がすっかりと降りきってしばらくした頃だった。
 さっきまで助手席で楽しげに喋っていた彼女も、いまや夢の世界の住人となっている。
 赤信号に引っかかった時にそっと覗き見たその寝顔は、過去に幾度か同衾したそのどの時よりも穏やかに見えた。
 それは去年の夏の夜に見た彼女の姉の安らかさとまったく同じで、私はこの時になりようやく知ることができた。
「水守さん、ちゃんと恋人に会うことができていたんだね」

 私と少女が乗った車を、威圧感を伴う赤い光で足止めしていた信号機が、『あなたたちもそろそろ先に進みなさい』とでも言わんがばかりに、緑色の優しい光でその行き先を照らし出した。
 アクセルを踏む足に少しだけ力を込めると、モーター音に合わせタイヤがゆっくりと回転運動を始める。
「……おねえちゃん」
 声の聞こえた助手席に視線を向けると、そこには相変わらず安寧の笑みを浮かべた少女の寝顔があり、その白い頬に一筋の光が流れ落ちるのを私は見た。
 ちょうどその時、つけたままでまったく耳に入っていなかった不遇のカーラジオから、十代の時分に大好きだったロックバンドの楽曲が流れてくる。
 今ごろ夢の中で、姉とその恋人と会っているであろう少女を起こしてしまってはいけない。
 歌い出しの部分だけを聴いてからラジオの音量を下げると、彼女の耳まで届かぬように最小の声量で曲の続きを口ずさみながら、白線の消えかかった道路を静かに走り続けた。



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