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死んだ恋人に会いにいく 第45話

親子

 助手席で寝息を立てる少女の、その上等な白磁のような頬をそっと撫でる。
 続けざまに柔らかな膨らみを指で摘み、力任せに真横に引っ張った。
「着いたよ。茉千華ちゃん起きて」
 着いたといっても彼女の家にではなく、そのすぐ近くにある道路の余地に車を止めていた。
「……おはようございます。あとちょっと痛いです」
 搗きたての餅のようにプニプニとよく伸びる頬から手を離す。
「寝ぼけ顔で帰ったらお母さんに変に思われるよ」
「だったらもう少し早く起こしてください」
 それは大変ごもっともな意見だが、姉妹の逢瀬を一秒でも長くとるための手段であったのだから、目覚ましが多少乱暴になったことは許してほしかった。

 後部座席から取り出したコートを彼女に羽織らせながら、念のために翌日の約束事項を確認する。
「明日、十時くらいにまたここにくるから」
「わかりました。それで、あの……」
 彼女はコートのボタンに掛けた手を止めると、胸元に落としていた視線を戻しながら言葉を続けた。
「夏に私が言ったことって、覚えてますか?」
 記憶力はあまり良い方ではなかったが、その件は内容が内容なだけに忘れてなどいるはずもなかった。

『じゃあ私が二十歳になって、それでその時かなたさんに恋人がいなかったら……お付き合いしてくれますか?』

 それが厳密に何年何か月後なのかは怖くて聞けなかったが、確かにそんなようなやりとりをしたことがあったし、なんなら危うく一筆取られそうになった記憶もある。
「うん。もちろん覚えてるよ」
「ごめんなさい。あれ、やっぱりムリです」
 その言葉の意味を理解することができなかった私は、口を『え』の形にしたままで固まってしまう。
「ハタチになるまで待つなんて、やっぱりイヤです」
 ああ、そういうことだったのか。
 それならば私からも彼女に伝えたいことがあった。
「僕もそう思ってたんだ。君が二十歳になるまで待つ必要って、あるのかなって」
 大人の男として良くないことを言っている自覚はある。
 だが今はそれよりも彼女に、そして自分の気持ちに嘘をつきたくない。
「じゃあ……」
 彼女の黒曜石製の瞳がひときわ大きく見開かれる。
「僕と付き合ってほしい。もし明日でよければ一筆したためるから」
「それはしなくてもいいです。でも代わりに」
 そう言ってゆっくりと目を閉じた彼女の肩に手を添えて、触れるか触れないかの強さで唇を押し当てる。
「……おでこ」
「続きは二十歳オトナになってからってことで。それじゃ茉千華ちゃん、おやすみ」
「はい、おやすみなさい。あと明日でいいのでやっぱり一筆ください」

 彼女の姿が家の敷地に消えていくのを見守ったあと、車に戻りながらスマホを耳にあてる。
「あ、もしもしお母さん? 僕だけど」
『あら、珍しいじゃない。どうしたの?』
「今年の正月、そっちに帰るから」
『何かあったの?』
「いや、そういうわけじゃないんだけどさ」
 何かもなにも、本当にいろいろなことがあった。
 ただ残念ながら、母に話して聞かせられることはひとつも思いつかなかった。
『じゃああれだ。都会よりもこっちのほうが休まるんでしょ?』
「まあ、生まれ育った町だしね」
 すんなりとそんなことを口にした自分が少しだけ照れくさい。
『それでいつ帰ってくるの? 一日ついたち? 二日?』
「あと十五分後くらい」

 相変わらず施錠されていない玄関を潜り居間へと向かう。
 座卓の上にはすでに私の分も含め、三人分のグラスとビールが用意されていた。
 両親と酒を酌み交わしながら四方山話に花を咲かせていると、「ところで叶多」と帰省時恒例の母の詰問が開始される。
「まだいい人はできないの?」
「ん」
「明日にでも連れてきなさい」
 それは果たして女の勘というやつだろうか。
 過去のそれとは少し違った息子の反応に、どうやら母は何かしらの手応えを感じとったようだ。
 父は「ついに叶多からあの台詞が聞ける日がくるのか」とひとりごちると、開けたばかりのビールを一気飲みし、次の瞬間にはとてつもなくいい笑顔を浮かべて見せた。
 父と藤田の気が合うのがよくわかったような気がする。
「お母さん、孫ができたらパートはやめてお手伝いするから安心して」
 母に至っては孫の世話をする算段までも立てていた。
「前から思ってたんだけど、なんでそんなに早く結婚させたがるの?」
 ふたりともまだ四十代と若いのだから、そんなに焦ることもないだろうに。
 それともただ単純に、私が鞭で尻を叩かなければ走らない駄馬であることを知っていたからか。
 だとしたら申し訳ない気持ちはあるし、実際のところその通りだったので反論をするつもりもなかった。
「だって、家族が増えたほうが叶多も楽しいでしょ?」と母が言い、「うちは親戚もいないからな。父さんと母さんだけじゃ叶多も寂しいだろ?」と父が言った。
 そんなことなんて今まで、たったの一度も考えたことはなかった。
 改めて思う。
 この人たちは本当に、本当に私の父と母なのだなと。
 私は自分が人よりも不幸だと思っていたが、それはあまりに愚かな勘違いだった。
 私ほど両親に愛されている子など、この町にもそうはいないだろう。
「……今年は三日までこっちにいられるから」
「ここはお前の家なんだから、三日でも四日でも好きなだけゆっくりしていきなさい。冷蔵庫に入ってる食べ物は好きに食べていいからね」
「……ん?」
 これとよく似たやりとりには覚えがあった。
 それも二度ほど。
「もしかしてまた旅行? 今度はどこに行くの?」
「沖縄に五泊」
「土産はソーキでいいか?」



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