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海の青より、空の青 第50話

変わりゆくもの

 何年ぶりだったか、昨夜は祖母と布団を並べて寝た。
 目が覚めるとすぐに寝床から這い出し、布団を部屋の隅に畳んで着替えを済ませる。
 味噌汁の匂いが漂う台所で祖母に挨拶をし、洗面所で顔を洗っていた時だった。

 開け放たれていた玄関の向こうから、車のエンジンの籠もった音が聞こえてくる。
 タオルで顔を拭きながら廊下に向かうと、玄関の正面に止まった車のドアが勢いよく開く。
 それと同時に、とても懐かしくて可憐な顔がそこから飛び出してきた。
 綿飴のように柔らかそうな髪をフワフワと弾ませながら駆け寄ってきた彼女は、脱いだ靴も揃えずに俺のすぐ目の前までやってくると、小さな身体で体当たりでもするかのように抱きついてくる。
 最後にあった時には少しだけしか違わなかった身長も、いつの間にか俺のほうが随分と大きくなっていた。
 彼女は俺の胸に顔を埋めたまま口を開く。
「ナツくん会いたかった!」
「俺も会いたかったよ、あっちゃん」
 遅れて車から降りてきた伯父と伯母にそのままの格好で挨拶する。
「おじさん、おばさん。ご無沙汰してます」
「お義母さんはもう大丈夫みたいだけど、明日那に夏生が来てるって言ったら、どうしてもってね」
 伯父は苦笑いをしながらそう言った。
 当然だが俺も今、激しく苦笑いを浮かべている。

 伯父夫婦が居間に向かうのを見届たあと、俺たち二人は昔と同じように仏間の前の広縁に腰を掛け、祖父と祖母の庭園を眺めながら久々の再会に胸を弾ませていた。
「ナツくん、ちょっと会わないうちに随分とおっきくなったね」
 実際、俺は中学三年になったくらいから急に身長が伸び始め、今は一七〇センチだがまだ止まる気配はない。
「あっちゃんもいかにも大学生って感じで……すごく綺麗になったね。もしかして彼氏とかできた?」
 わざと意地悪な顔をして言うと、彼女は少し恥ずかしそうに「うん」と言いながら首を小さく縦に振った。
 少し――いや。
 だいぶ意外なその返答には当然驚いたが、正直なことをいえば少しだけほっとした。
 俺が彼女のことが好きなのは、幼かったあの頃から変わってなどいない。
 だが、その好きが世間一般でいうところの恋愛感情と同じかといえば、それはまた少し違っていた。
 ただ、彼女のそれが俺と同じではないことは、中学一年の夏の終わりに彼女がうちに泊まりにきた時に知ることとなった。
 しかし、当時傷心の只中であった俺は、彼女からの告白をにべもなしに突っぱねてしまったのだ。
 きっと彼女にしても、曖昧な関係に白黒を付けたかっただけだったのかもしれない。
 だとすれば交際に至ろうがそうでなかろうが、元からどちらでもよかったのではないか。
 でなければ、その直後に私の眠る布団にこっそりやってきては同衾し、翌日には何もなかったかのように接してくれたことの説明がつかない。

 それはそうと、その彼氏とやらは彼女が選んだ相手なのだから、きっといい男に決まっている。
「あっちゃんの彼氏って同じ学校の人なの?」
「うん。あとね、その人ってちょっとナツくんに似てるんだ」
 前言撤回。
 もしかしたら大した男ではないのかもしれない。
「ナツくんは? 好きな人とかいないの?」
 さっき俺がしたように、楽しそうに目を細めて同じような質問を投げかけてくる。
「……うん、いる」
「あ、そうなんだ……」
 なぜだかわからないが、質問をしてきた彼女の方が顔を赤らめて俯いてしまった。
 何も変わっていないと思っていたこの町だったが、やはり時間の流れは色々な変化をもたらしていた。
 しかし、それは必ずしも悲しいことばかりではないと、そんなことを彼女が教えてくれたような気がした。

 俺と祖母が朝食を済ませているうちに、あっちゃんの家族は墓参りの準備をしてくれていたようだった。
 久しぶりに彼女と肩を並べ、毎年のように通った寺への道をゆっくりと歩き出す。
 道中で足場のあまり良くない場所を通ったが、昔のように俺は手を取ることをしなかったし、彼女もそれを求めてはこなかった。
「おじいちゃん、久しぶりでごめん」
 柄杓で墓石に水を掛けながら祖父や先祖に不義理を詫びると、墓の正面で腰を落として手を合わせる。
 幼かった頃にしていた墓参りは、ただただ夏の夜の楽しいイベントに過ぎなかったということが、こうして今になりようやくわかった。
 本来はこんなに静かで穏やかな気持ちで行うものだと知ったその瞬間、子供の頃の思い出が上書きされて薄れていくのを感じた。
 俺はこれからも、これと同じようなことを幾度も経験しながら、いつしか大人になるのだろう。

 墓参りを終えて参道へと戻っていく親族の最後尾で、俺はひとり墓地の奥へと目をやっていた。
 他の墓石の影となって見えないそこには、何十年も前に海で命を落とした少女が眠っている。
 果たして彼女が本当に俺の前世なのかどうかを知る術はないが、いつか一度しっかりと、その墓前に花と線香を手向けて手を合わせたいと思いながら、皆の背を追いかけ墓地をあとにした。

「おばあちゃんナツくん! またお盆にね!」
 あっちゃんは最後にもう一度だけ俺に正面から抱きつくと、耳元で「彼女さんによろしくね」と言って、小さく可愛らしい舌を出して照れくさそうに笑った。
 狭い掘割の間を慎重に走り去って行く車を見送ってから家の中に戻ろうとした時、周囲から急に蝉しぐれが降り注ぎ始める。
 七月の終わりにして、この田舎の町にもようやく夏がやってきたという気がした。

 昼飯を食べたあとは祖母の手伝いをして時間を使った。
 相変わらず手入れの行き届いている庭には雑草など殆ど生えていなかったが、わずかに目を出していたそれを目ざとく見つけては引き抜き、気がつくと日が西の方へと傾き始めていた。
 そろそろ時間だ。
「おばあちゃん、ちょっとだけ出掛けてくるよ。もう子供みたいなことはしないから」
「行っといで。晩ご飯作って待ってるでね」
 祖母に見送られて掘割のトンネルを抜けると、今年三度目の海へと向かい、赤土の畑の間の道を歩き出した。


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