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死んだ恋人に会いにいく 第40話

女神

 今日に限って入浴に普段の倍近くの時間を掛けてしまった。
 そのほとんどは湯船の中から天井を見上げていただけだったはずなのに、入浴前よりも今のほうが疲れているというのだから世話がない。
「遅くなってごめん」
「いえ。それじゃお風呂お借りします」
 洗面所へと向かう彼女の後ろ姿を見送ると、納戸を客室へと変容させるための作業に取り掛かる。

 四十分ほど経った頃、ブローした髪を手櫛で整えながら彼女が洗面所から出てきた。
 パジャマ代わりに着たタイトなTシャツとショートパンツ姿は、その年代の少女の家着としては特におかしなことはないとしても、長い脚のほとんどが露出した格好に目のやり場が奪われる。
 バスタオルで半分ほど隠れたその顔は長旅の疲れからか、ひと目で『おねむ』といった様子が見て取れ、なんなら今すぐにでも膝から崩れ落ちてしまいそうですらあった。
「かなたさんごめんなさい。お話って明日でもいいですか?」
 どうやら本人にも電池切れの自覚があるようだ。
「うん。今日はもう寝よう」
 まるで軸が歪んだ独楽のように、右へ左へとふらふら揺れる少女の手を引きつつ、用意しておいた寝床へとゆっくり誘う。
 敷布団の上にうつ伏せに倒れ込んだ背に毛布を掛け、壁のスイッチで照明の照度と色温度を限界まで下げてから部屋をあとにする。
「茉千華ちゃん、おやすみ」
 去り際に掛けた声は彼女の耳まで届かなかったようで、返事の代わりに小さく可愛らしい寝息が聞こえてきた。

 時計の短針はすでに日付を跨ぎ進んでいた。
 今年も残るところあと四十八時間を切ったのだが、特にこれといった感慨が湧いてくるようなこともなかった。
 子供の頃には両親や友達と初詣に出掛けたり、普段は食べることのない無駄にでかいアイスを買ってもらったりと、正月というのは一年の中でもっとも特別な日だったのに、もはやその頃のワクワクとした気分を思い出すことさえ難しい。
 厚手の毛布を肩まで掛けて照明を落とす。
 あとは眠りが訪れるその時まで、極力何も考えないように注力するだけだ。
 今の時期の私にとって就寝までの僅かなこの時が、一日の中で一番の苦痛を伴う時間でもあった。
 何度も寝返りを打ちながら、時には枕の下に腕を突っ込んでみたり掛け布団から膝から下だけを出してみたりと、やっていることは子供の頃から何も変わっていない。
 きっと中身も似たようなもので、なんならあの藤田でさえ私よりはよほど大人という可能性もある。
 私は自分の年齢を常に頭の隅に置きつつ、それに適した振る舞いを演じているだけの偽りの大人だ。
 ただ最近では、それすらも無理が出始めているような気がしてならない。
 同年代の友人や知人は次々と結婚し、子を儲け、いつの間にか無責任な若者から責任ある大人になっていた。
 私にとっての結婚とは、未だに恋愛の延長線にあるようなものでしかない。
 この考え自体が子供のそれなのだという自覚もあったが、その恋愛すらも自分とは随分と縁遠いもののように感じ始めている。
 私が人生で唯一愛した女性は、いまや他人のものになってしまった。
 刹那ではあったが新たな恋心を予感した相手は、今頃どこで何をしているのだろうか?
 そういえば、こんな私のことを好きだと言ってくれている変わり者がひとり、壁を一枚挟んだところで寝息を立てているということをすっかり忘れていた。
 聞いたところによれば彼女の姉もまた、こんなくだらない男のことを好いてくれていたことがあったのだという。
 何ともまあ、もの好きな姉妹がいたものだ。
 今後もし、彼女らの母親と話す機会があったとしたら、『あなたの娘さんは少し特殊な嗜好を持っているので注意してあげてください』と進言しよう。
 そんなどうでもいいことに脳のリソースを割いているうちに、ようやく私の意識は深いところを目掛けて沈んでいった。

『……たん』
 ……。
『かなたん』
 なあに?
『かなたんはママのこと好き?』
 うん! だいすき!

『叶多』
 なあに?
『叶多はパパのことが好きか?』
 うん! ママのつぎにすき!
『……パパは叶多のこと、ママと同じくらい好きだよ』

 無垢なる存在である過去の私が、無邪気な問を投げかけた父を少なからず傷つけてしまった気がするが、これもきっと実際にあったシーンではないのだろうから、どうか許してやって欲しい。
 それはそうと、私はいま自身が置かれているこの状況を理解できている。
 即ちこれが例の悪夢ゆめだということを。
 いずれにせよ理解ができたところで、この世界に於いての私は傍観者に徹することしかできないことに変わりはなかった。
 父と母が語りかけている『叶多』と『かなたん』は、私であって私ではないのだから。

『かなたん』
 なあに?
『かなたんももうすぐお兄ちゃんになるんだから好き嫌いなくさないとね?』
 うん!

『叶多』
 なあに?
『お兄ちゃんになったら妹のことをしっかり守ってあげるんだよ』
 うん!

 何百回と見てきたこの夢にして、こんなシーンに遭遇したのは初めてだった。
 それよりも私は生粋のひとりっ子であり、妹などはいなかった。

『かなたん』
 お母さん、なに?
『かなたんは今、しあわせ?』
 ごめん、お母さん。
 それは僕にもわからないんだ。

『叶多』
 お父さん、なに?
『お前には本当にすまないことをしたと思ってる』
 お父さん、違うよ。
 ぜんぜん違うんだよ。
 僕はお父さんとお母さんのおかげで、今もこうして生きているんだから。

『叶多』『かなたん』
 お父さんお母さん、なに?
『愛してるよ』
 僕もだよ。
 でも。
 でも、ごめんなさい。
 本当に、ごめんなさい。
 僕はあなたたちからもらったこの大切な命を、正しく使うことができていない。
 僕はあなたたちからもらったこのかけがえのない命を、まったく無駄にしてしまっている。

 胸が張り裂けるような激しい慟哭に襲われる。
 涙で顔がぐしゃぐしゃに濡れ、それが幼い私に覆いかぶさり殺された母の血の温度を思い出させた。
 これは夢だとわかっているのに。
 すべてがもう、取り戻せないことだと知っているのに。
 苦しい。悲しい。寂しい。つらい。助けて。
 助けてくれるのであれば何でもするから。
 その手段として必要なのであれば、殺してくれてもいい。
 そんな矛盾した考えを抱くほどに夢の中で絶望しかけた、その時だった。
 温かく柔らかな何かが、涙にまみれた私の頬に触れた。
 それはおそらく手のひらで、大きさからいって女性のもののように感じた。
 母だろうか?
 違う気がする。
 伯母ははだろうか?
 それも違う気がする。
 そうだ。
 目を開けば、夢から覚めてしまえばいいのだ。
 そんな単純すぎる気づきを即座に実行に移す。
 実際のところそれは思っていた通りに簡単で、その途端に光が世界に溢れた。

 薄く開けた目に飛び込んできたのは、母でもなければ伯母でもなく――膨大な数の英単語であった。
 試しにそのうちのひとつを声に出して読み上げる。
「アイラブ……ユー」
「えっ? あ……え? あ、ありがとうございます」
 声のした上方向に顔を向ける。
 そこにいたのはやはり母でもなければ伯母でもなく、やたらとポジティブな英単語が大量にプリントされたTシャツを身にまとった、とてもよく知った顔の少女だった。
 彼女はまるで茹でたてのカニのように顔面を真っ赤に染めあげ、黒く大きな瞳を潤ませながら私の顔をじっと覗きこんでいた。
「……茉千華ちゃんが起こしてくれたの?」
「あ、ごめんなさい。お手洗いに行った帰りにお部屋のまえを通りかかったら、すごくうなされていたみたいだったので」
「とても……怖い夢をみていたんだ」
 内容こそ覚えてはいなかったが、間違いなく今までみた中で最悪の悪夢だった。
「かなたさん、おおきな声で助けてって言ってました」
 もし彼女が私のことを起こしてくれなかったらと、そう思っただけで恐怖に体が震えそうになる。
「助けてくれてありがとう」
 彼女の頭には月桂冠は載っていなかったし、手にイージスの盾を携えていることなかったが、私にとっては紛うことなく救いの女神だった。
「あの、叶多さん」
「なに?」
「ここで一緒に寝てもいいですか?」
「……うん。僕もそうしてほしい」

 ベッドに彼女が収まったのを確認してから照明を消し布団に戻る。
「かなたさん。もうちょっとだけ下にいけますか?」
「あ、ごめん狭かった? って、下?」
「はい。三〇センチくらい下です」
 その指示に従い、布団の中を毛虫のようにもぞもぞと移動する。
「あ、そこで大丈夫です」
 そう言うやいなや、彼女は私の頭をその細い両腕で抱え込む。
 その途端、まだわずかに残っていた恐怖心が消えていく。
「苦しくないですか?」
「……うん」
「狭くないですか?」
「……うん」
「眠れそうですか?」
「……」
「かなたさん?」
「……」
「……おやすみなさい」

 気がつくと暖かなひだまりの中にいた。
 赤ん坊を胸に抱いた母の傍らで、タウン誌を手にした父が『次はどこに連れていこうか?』と大はしゃぎしている。
『ねえパパ? かなたんが起きちゃうからちょっと静かにして?』
『……すいません』
 母に割りと真面目に叱られた父は、気の毒なくらいあからさまに肩を落とす。
 それはどこにでもありそうで、それでいてなかなかお目には掛かれない幸せな光景だった。

 お父さんお母さん。
 生んでくれてありがとう。
 愛してくれてありがとう。
 あなたたちにもらったこの生命を、もっと大切に使えるように頑張ります。
 だからどうか目が覚めたあとにも、この幸せな気持ちがほんの少しだけでも残っていますように。



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