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価値観という名前の色眼鏡

昨日大好きな人とのやり取りの中で
自分がどういうスタンスでこの仕事をしているのかってことを再確認した。
漠然とこうというのをもちながらも、きちんと言葉にすることはあまりないから。でも言葉にすると自分でも驚くぐらいすらすらと出てくるものだ。

人間誰しも「これはこうだ」という思い込みがある。其れが他人とのすり合わせの中で「価値観」になっていく。すり合わせというのはある意味で、自分自身の中での「正当化」なんじゃないかなと思う。

で、その価値観のなかで生きていくわけで、それが例えば60歳の人と80歳の人だと、20年の差があるよね。その差は経験なんかで上下関係があったりするけど、実際的に一番の差は、
「価値観という色眼鏡の分厚さが増す」と、自分は思う。
それは良く言うとすれば「自分らしさの確立」ともいえるかもしれないけれど、そもそも自分らしさをはき違えながら生きている人にとって、
そのズレが顕著に出てしまうような気がする。
まぁでも、本人的にはそれでいいんだと思っているケースが大半なんだけど、結局「他人基準」になっているか「自分基準」になっているかで
かなり違うなぁと思ったりする。
その色眼鏡は結局その人そのものと同化していたりするから、なかなか変化しにくいし、それを他人が変えるなんてまず無理。
もちろん家族や恋人、親友なんかだって変えるのは無理。
そこはき違えたらダメなところなんだけどね。

「その色眼鏡をひっくるめてその人だってこと。それを受け入れることしか、周りの人間ができることはないんだよね」
そんな話を彼としていた。
思うに、ありのままの状態をありのまま受け入れたとき、そこは対等な状態となるのではないだろうかと。
こういうと、いや高齢者や障碍者は対等ではないだろう、と言われるかもしれない。でもね、対等だ、という状態はすべてをひっくるめた状態のことで、その人と、自分との違いだったり、差だったりをハンデとすること自体がつまりその部分を特別に見てしまっているなぁと。
つまり、ハンデをつけるということで差をなくそうとすること自体がそのまま受け入れてないということ。いろいろあるとは思うけど、でもあるがまま受け入れるっていうことはハンデを与えることでもないし、できない部分にフォーカスすることでもないと私は思うな。

だから私は色眼鏡、っていう表現にしている。個性にハンデはいらないしね。
その色眼鏡が、もしかするとある人にとっては不快に感じてしまうかもしれない。またある人にとっては、尊敬に値するかもしれない。
けど、それだからと言って自分らしく生きることをあきらめてしまう理由になるのだろうか。


もっと読んでみたい!という気持ちが 何かを必ず変えていきます。私の周りも、読んでくださった方も、その周りも(o^^o)