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『追い詰められて子殺しをするかわいそうな母親』とかいうツチノコの話

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あるいは河童、イエティ、理解あるカノジョ、オタクに優しいギャルなど。


3人の子どもが母親に殺された。

上から5歳、3歳、9か月。守られるべき者たちが、その責任を果たさない親に殺された。姉妹たちが愛し信頼している絶対者に次々と殺されていく様子を、それぞれどんな目で見つめていたのだろうか。その眼に狂気の絶対者の顔はどう映ったのだろうか。

各々、様々な感情を覚えたことと思う。
この事件を見て自分のことのように感情を動かされている人たちがいる。親の視点をもつひとたちと、子の視点をもつひとたちだ。
視点の違いから生まれている対立もあるように思う。
まずはそれぞれの視点から見えるものを考えていきたい。


親の視点と子の視点

まず親の視点。特に現在進行形で育児をしていて、言うことをきかない子どもに手を焼かされ思わず声を上げてしまったり、手を挙げてしまったり、どうしても許せなくなってしまったのち自己嫌悪に陥る経験は、育児をしていれば経験するものだろう。
育児の苦労の中でときたま自身の行為や感情がエスカレートした末、愛する子どもに手をかけてしまうのではないかという不安は、親の視点からいえば妥当なものだ。
愛情を注いで子を大切に想っていればこそ、凄惨な事件をきっかけに自身の行いを省みて不安を覚えてしまうのだろう。

ただし「自分も同様の行為をしてしまうのではないか」という不安は、確かにその可能性は0ではないという点で正しいが、自身の行為の責任を自身に帰することができているという点であまり心配はいらない

「自分が虐待をしてしまうのではないか」という疑問をもち反省できる親は、たとえ一線を越えたとしても戻ってくることができる。あの事件を見て不安に思う親御さんは大丈夫だと思うし、それでもどうやっても子どもに適切な対応ができなかったり、一線を越えてしまいそうなら公的な援助を探したり、場合によっては病院やカウンセリングに来てほしい。自分を省みてそうした不安を感じられる理性が残っているなら、自分を変える努力を少しずつ試して欲しい。少なくとも「自分も同様の行為をしてしまうのではないか」という感想を抱くことに、過度に自責の念を抱く必要はない。そう感じられているうちは大丈夫。変わっていける。

次に子の視点。過酷な家庭環境で生き延びた人たちだ。物心がつくより前に死ぬよりつらい環境で育ち、逃げ出した先でも身にこびりついた孤独に苦しんでいるひとたち。そこまででなくとも、他人には理解され得ない環境で苦しんで育ってきてその苦しみを飲み込んでいるひとたち。そうしたひとたちにとって、こうした子どもが殺される事件は自分のことのように感じるだろうし、過去に自分が受けてきた苦しみを思い出してしまうかもしれない。

「ワンオペ育児だから」「気持ちが不安定だったから」「殺すつもりはなかった」などという世迷言を受け入れられるわけがない。子を守るべき立場にいる親の殺害に至る事情など、子にとっては知ったことではないし幼子には理解できない。子にとっては親にどんなに追い詰められた事情があろうとも、殺されていいはずがない。健全な養育を投げ捨てた親の行為を正当化して納得する理由はない。どんな事情があろうともだ。
虐待親の「かわいそうな」事情を鑑みて殺すのも致し方なし支援が足りないのが悪いんだと擁護する向きに怒りを覚えるのは当然だ。
自分の生き延びてきた地獄を否定されるように感じるだろうし、自分の受けてきた仕打ちを肯定されるようにも感じられるかもしれない。

「かわいそうな母親」というファンタジー

一部では、「ワンオペ育児で夫の援助を得られず大変な思いをしていたから気持ちが追い詰められて殺してしまった」というような説がまかり通っている。
凄惨なこの事件に思いを馳せたとき、「殺してしまうほど追い詰められたかわいそうな母親」というストーリーを作ってしまうことは、正直無理のない話だと思っている。愛する子に危害を加えるというあまりにも逸脱したことを、追い詰められでもしないとするはずがない、まともな状態ならするはずがない、という含意だろう。いわゆる公正世界仮説ともとれる。

だがそれは「まともな状態で愛する子を殺すはずがない」という公正な価値観に基づいた偏見であり、都合のいい創作物語だ。
実際の虐待親は、別に追い詰められてようが追い詰められていなかろうが、普通に子に暴言を吐くし殴るし蹴るし、うっかりすると子を殺す。
彼らにとって子どもは、自身の感情をケアするための道具だ。
普通の母親が追い詰められて子を殺す、というストーリーはファンタジーだ。
子どもを自分の感情をケアする道具として利用してる母親は、追い詰められていなくても子を殺すし、普通の母親は追い詰められても子を殺さない。
あの母親は自分の意志で、3人の娘を、殺したいから、殺したのだ。


虐待親は自分のために虐待をしている

子殺しが見つかったとき、子殺し親はこう言ったのだとか。
「ワンオペ育児で疲れていた」
子殺しに限らない。子の虐待を指摘されるとすべての虐待親はこう言う。
「子どものために」「子どもがいうことをきかないから」「子どもが勉強をしないから」「子の将来のために」「子どもが病気だから」「子が誘惑してきたから」「子も喜んでいたから」「子が望んでいるから」「私も病気だから」「私が苦しんでるから」「夫が育児に参加しないから」「自分もそうされてきたから」「ワンオペで疲れていたから」だから「これは虐待ではない」と。
身体的虐待も性的虐待も心理的虐待もネグレクトも教育虐待も、その親が子を自身の欲求を充足させる手段、感情をケアするための道具として扱うがゆえに起こる。

虐待親は自身のために虐待をしているが、それを認めることはない。絶対にない。
けれど周囲は信じるのだ。
「ああ、こんな事情があったんだ。周囲から虐げられてかわいそうな母親なのね」と。

毒親とやりあった経験のあるひとはわかるはずだ。毒親は自らを毒親と認めることはけしてない。虐待してるんじゃないかという疑問を持つことはない。
あなたのために、あなたのせいで。
膨れ上がった他責のなれ果てに、子殺しが生じる。

「殺してしまうほど追い詰められたかわいそうな母親」なんてものは、悪鬼羅刹のごとく邪悪な母親が存在する現実を知らない者の語る、甘い理想で作られた空想上の産物だ。「自分の事情で子を殺したいから殺した邪悪な母親」だけが、存在する。

やさしいひとたちが主張するようにもし仮に何らかの事情で追い詰められていたとしよう。それでもその母親は、子を安全で安心な環境で育て世界への信頼感を育む責任を放棄し、それほどまでに追い詰められた状況を改善する責任を果たさず、追い詰められた状況を解決するべく自分勝手に3人の子どもを殺した。殺す以外の選択肢もあったはずなのに。
「いやいや極端な選択肢しか選べないような環境に陥っていたんだ」と庇う人もいるが、当然ながら殺される以外の選択肢を持てるはずもない子どもたちよりも選択肢がなかったはずはない。

自身の育児なり生活なりの苦しみから逃れるためだとしてそのために3人の子どもを殺した人間のどこがかわいそうなんだ?
誰かまじで教えてくれ。「自分が追い詰められていたから」という理由で自分の責任をすべて棚に上げて3人の子を殺した悪魔のどこに同情してるんだ?

5歳、3歳、9か月。3人の子どもたちと母親が向き合っているところを想像してほしい。
そして、どの子でもいい。
その子の目線で世界を見てみて欲しい。
その子の視界には母親と姉妹2人しかいない。
そして何が起こったかを想像してみてほしい。
目の前で姉妹の首に手が伸び、そして自分に手がかかる。
この女のどこがかわいそうなんだ?
かわいそうとか言ってる連中、ばかなんじゃないのか?

目に見えないもの

「子を殺したいから殺した邪悪な母親」が存在することを認められないひとは多くいるのだろう。そんなもの創作だというひともいるかもしれない。
けれど、いるのだ。未確認生物ではない。ふつうの人には見えないけれど、存在するのだ。
未確認生物なのは「追い詰められて子殺しをするかわいそうな母親」のほうだ。


邪悪な母親に蹂躙されたひとたちが声を上げても、それを信じてもらうことができない。
それこそ、今回の事件はたまたま最悪なことが起きた結果、表ざたになったに過ぎない。
地獄はそこら中に存在する。
目につくところにないだけで、ほんとうにそこら中にあるのだ。


人がまだ死んでいないから表ざたになっていない地獄の存在を、どうか心にとめてもらいたいと思う。
そして、そうした地獄から生き延びたひとたちに、優しくあって欲しいと思う。

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