蕎麦屋と自然薯
人生の巡り合わせというものは、本当によくわからない。偶然によってもたらされた結果を、人は時として、必然と呼んだりする。あの日、あの時、あの場所で。むかしの流行歌にもそんなフレーズがあった。鍵を忘れたとか財布を落としたとか、たとえばそんな些細などうしようもない偶然で、本当に人生が動いてしまったりする。そうして、過去に自分が通り過ぎてきた路をふと振り返って思い出し、その節々に、トゲのように心に痛々しく刺さるささくれのようななにかを見つけたりする。かつて、飲食店を経営していたことがあった。いまでもその店とは関わりはあるが、経営の責任はもうわたしにはない。その店を出そうと考えたのも、本当に、ほんの思いつきだった。好きな子にいいところを見せたいとか、誰かに褒められたいとか、そんなような、小学生とか中学生の言動の動機によくあるようなそれと、レベルとしては大差のない動機だったと思う。ただ、行動力は小学生や中学生のそれよりはさすがに高かったので、気がついたら本当に店が出来上がっていて、営業がスタートしていた。そして、営業を続ける間に、いろいろな人が関わって、いろいろな人が去っていった。時間にしてみれば、ほんの一年と少しの間でしかなかったが、それでもその間にいろいろなことがあったし、いまその店を経営している、店を引き継いだ友人とも、この店がなければその後の人生ではいまほど関わり合うことはなかったかもしれない。店を経営していた当時オレは狛江に住んでいる女の子と付き合っていた。その女の子はもう他所へ引っ越してしまったし、今はもうオレとは付き合っていない。でも、その子が当時住んでいた狛江の家の近所にあった蕎麦屋には、いまでもオレは通い続けている。十割の蕎麦を打つ、というのはそう簡単なことではない。一般的にスタンダードとされているのはニハチ、つまり、小麦粉が二割で蕎麦が八割の蕎麦なわけだが、小麦粉を使わずにそば粉だけで蕎麦を打つ十割蕎麦というのは、蕎麦粉選びから打ち方まで、相応のスキルと経験が必要とされる。その蕎麦屋を見つけたのも本当に偶然だった。当時付き合っていたその狛江の女の子の部屋に泊まっていたときに、美味しい蕎麦が食べたくなって、明かりの消えたベッドの中でインターネットで近所の蕎麦屋を検索した。大した蕎麦屋が出てこないなか、唯一気になったのがその蕎麦屋だった。その女の子は全く蕎麦に興味がなかったので、ニハチでも十割でも、はたまた立ち食いそばの四割でも大差はなかったかもしれないが、街のなんでもない蕎麦屋のような出で立ちのくせに、あらゆる仕事を最上級のスタンダードでこなしている、という意味で、その蕎麦屋はオレにとっては驚愕的な存在だった。上質な生の本わさびを使い、十割の蕎麦を打ち、化学調味料の入っていない蕎麦つゆを出す。冬はとろろに自然薯を使い、天ぷらにはピンク色の岩塩が添えられて出て来る。元々は出前をやっていた街の蕎麦屋だったとは思えないクオリティの料理が出てくる。自然薯は千葉の香取というところのものを使っているらしく、しっかりと濃い風味、もちもちとした食感、それでいてイヤミのない香りが楽しめる。ふつうの大和芋や長芋に比べると、芋そのものが高価なので、店頭での提供価格もそれなりに高価ではあるが、一度食べてみると、その味わいは明らかに普通の山芋とは大きく違うことを知り、驚く。その狛江に住んでいた彼女は、たぶんいまでも自然薯を知らないのではないかと、なんとなく思う。実際がどうだかはしらないが、たぶん、知らないだろうというような気がする。狛江とか喜多見とかと言ったエリアは、いまのオレの家からはそう近い場所ではないが、それでも、いまでもその蕎麦屋には折に触れて顔をだしている。そして、その蕎麦屋に行く度に、過ぎた季節のことを、いなくなった人々のことを、ふとぼんやりと思い出したりする。(2018/01/07/04:12)
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