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写真よ、これから君は何処へ向かうんだい

どうも青山です。

最近写真に関することはいろんな方面で良くも悪くも荒れていますが、皆さんは今回の木村伊兵衛写真賞にて動画(インスタレーション)が受賞されたことをご存知でしょうか?

そもそも動画が写真賞取っていいのか?と言った意見は当然出た訳ですが、キャノンの写真新世紀でも最終盤は動画が受賞しています。

木村伊兵衛写真賞自身も近年は基本的に写真集に当てられていたため、この結果には賛否両論あると思います。
私自身も最初にこの情報を聞いた時に抵抗感はありました。

特に社会的情報や問題と自己を結びつけて写真という停まった情報量に落とし込む素晴らしさをこれまでの木村伊兵衛写真賞から学び得ていたことが大きかったのが要因です。

私のグチもここまでにして本題に入っていきましょう。

今回のお話は写真表現にかなり偏った内容になるのでご興味がなさそうであればここで見るのをやめるのも結構です。

またかなりテキスト中心なのでお時間がある時に読む事をお勧めします。


写真の起源と写真史について

早速ですが、ここら辺はただの歴史の話なので興味がないもしくは知ってるよって方は飛ばす事をオススメします!


絵画や彫刻等のアートと比べ写真は歴史が浅い訳ですが、写真を撮るための装置の起源は「カメラ・オブスクラ」と言われています。

投影像を得るための道具で主に絵画のために使用されたとされています。

試しにchatGPTに聞いて見ました。

カメラオブスクラ(Camera Obscura)は、暗い部屋や箱の一部に小さな穴(ピンホール)を開け、その穴を通して外部の光を取り入れる装置です。光が穴を通って反対側の内壁に映し出されると、外部の風景が上下左右逆さまの像として投影されます。この原理は写真機の基本原理となっています。

1. カメラオブスクラ(古代〜18世紀): 自然光を使った投影装置として使用。絵画の補助などに利用された。

2. 写真の発明(19世紀前半):
  - 1826年: ジョゼフ・ニセフォール・ニエプスが世界初の写真(ヘリオグラフィ)を撮影。
  - 1839年: ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールがダゲレオタイプを発表。これが実用的な写真技法として広まる。

3. 湿板写真(1850年代〜1880年代): コロディオン湿板が開発され、写真の感度と画質が向上。

4. 乾板写真(1870年代〜1890年代): 乾板が発明され、写真撮影がさらに簡便化。

5. ロールフィルムとカメラの普及(1888年): ジョージ・イーストマンがコダックカメラとロールフィルムを発表。一般市民にも写真が広がる。

6. 35mmフィルム(1920年代〜): ライカ社が35mmフィルムカメラを開発。ポータブルで高画質な写真撮影が可能に。

7. カラー写真(1930年代〜): コダクロームなどのカラーフィルムが登場し、カラー写真が普及。

8. ポラロイドカメラ(1948年): エドウィン・ランドが瞬時に写真を現像できるポラロイドカメラを発明。

9. デジタル写真(1990年代〜): デジタルカメラが登場し、フィルムからデジタルセンサーへの移行が進む。

10. スマートフォンカメラ(2000年代〜): スマートフォンに高性能なカメラが搭載され、誰でも手軽に写真撮影が可能に。

以上が、カメラオブスクラから現代までの写真史の簡潔な流れです。

chatGPTより引用

簡単な流れはchatGPTでも問題なく答えてくました。

続いて表現としての写真史について聞いてみました。

写真の歴史において、写真は単なる技術的な進歩だけでなく、表現手段としても重要な役割を果たしてきました。以下に、表現としての写真史の主要な流れを簡潔に示します。

1. 初期写真(19世紀中頃):
• ダゲレオタイプ: 写真が肖像画の代替として使われ始める。
• アルバム写真: 家族や風景の記録としての利用。
2. 芸術写真の台頭(19世紀後半〜20世紀初頭):
• ピクトリアリズム: 写真を絵画のように表現する動き。ソフトフォーカスや手作業による加工が特徴。
• ストレートフォトグラフィ: 写真独自の美を追求。正確でありのままの描写を重視。
3. ドキュメンタリー写真(20世紀初頭〜中頃):
• 社会改革: ジェイコブ・リースやルイス・ハインのような写真家が、労働条件や貧困問題を記録し、社会改革を訴える。
• 報道写真: 戦争や重要な出来事を記録し、広く伝えるための手段として発展。
4. モダニズムとアバンギャルド(20世紀前半):
• バウハウス: 新しい視覚表現の追求。構図や光の抽象的な使い方が特徴。
• ダダイズム、シュルレアリスム: 写真をコラージュやフォトモンタージュに使い、現実と夢の融合を試みる。
5. 戦後写真(1940年代〜1960年代):
• ストリートフォトグラフィ: 日常生活の瞬間を捉える。アンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」。
• ファインアートフォトグラフィ: 写真が純粋な芸術表現の一形態として確立される。
6. コンセプチュアル写真(1960年代〜1980年代):
• コンセプチュアリズム: 写真そのものではなく、アイデアや概念を重視。シンディ・シャーマンやバーバラ・クルーガーのようなアーティストが活動。
7. デジタル革命と現代(1990年代〜現在):
• デジタルアート: 写真のデジタル加工が可能になり、新しい表現方法が開拓される。
• ソーシャルメディア: インスタグラムなどのプラットフォームを通じて、写真が個人表現の一部として日常生活に浸透。
• 多様な表現: 写真がファインアート、ファッション、広告、ドキュメンタリーなど、多岐にわたるジャンルで活用される。

このように、写真は技術的進歩に伴って表現手段としても多様化し、社会や文化における重要な役割を果たしてきました。

いまの写真〜私の視点

chatGPTより引用

こうして見ていくと全てがとは言い難いですが、ファッションや世界史、日本史、絵画といった時代の移り変わりと似た事が起こっているように思えます。

何かベースになるものが現れるとバランスを取るようにその対になるものが次の時代を作っていき、また元のテーマに戻ることの繰り返しです。

ただここには当然、繰り返す事で元のテーマよりは進化を繰り返していき弱いものは淘汰され新しい要素が組み付けられて次のものへと生まれ変わります。

現時点での私の視点


現代において表現における写真は嫌にもコンテキストや自己と社会との繋がりを強く見られるようになっています。

当然木村伊兵衛写真賞のようなガチガチの写真賞は上記のテーマ性が強く好まれる状況です。

写真を撮る楽しむ行為は自由であり、写真の意味の有無や伝わる伝わらないと言った部分に特に優劣はなく押し付ける事はナンセンスというのが前提です。

一説では1日に世界で10億枚も写真が撮られているそうなのでその中で自分はこう思うからお前の写真はダメであると言った事はナイアガラを滝登りするようなものです。

私は写真家を名乗る以上、作品として残すものに意味や名前をつけないと言った事は写真に失礼、及び撮らせていただいたモノに失礼だと思っています。

膨大なジャンルや思想、宗教、生まれによるバックグラウンドで日々ビッグバンを起こす表現において議論や批判を起こすのも自由ですが写真家として写真で語る者でありたいものです。

特に海外と日本では大衆性における評価軸にズレを感じています。

日本はガラパゴス化が特に強く、宗教の多様性や伝統的な継続されてきたものに美徳を感じる文化があるため私の所感ではありますが以下のものが好まれているように感じます。

・ノスタルジックなもの
・伝統的なもの(建物、技術、もの)
・日常的な風景、スナップ
・ポートレート 

ポートレートやスナップは海外でもよく見られますがノスタルジックという感性は元来東洋人に特化された感覚であるため欧米では受けにくい傾向にあります。継続されているものに美徳を感じる文化がここら辺の評価軸に現れていると言えるでしょう。

これに比べ海外は勝者に対しての美徳意識が強く、島国で長らく平和であった日本と、革命や勝利により生き残ってきた大陸国との差を感じます。

・社会と自己との結びつき
・社会問題
・これまでになかった表現
・文化や宗教感の記録

これらは私が過去に調べ上げた情報を掻き集めて大体こんな感じといった書き方をしているので、整合性は高いとは言えませんが、日本と海外の美徳意識については概ね正しいと断言できます。

簡単な例をだすと先日に公開されていた製品を油圧プレスで潰されるappleのCMをご存知でしょうか?


このCMは主に多くの日本人が批判したそうなのです。
これは物を大切に継続して扱うことを美徳とする日本人には受け入れられず、古き弱きものは淘汰される物であり新しき勝者こそが美徳とされる海外では受け入れられたと言う分かりやすい例です。

こう言った受け入れやすさ、されにくさについても自分がどこへ向けて写真を公開するかを厳密に考える時にヒントになるかもしれません。

これからの写真

ところで近頃AIを用いた事例を度々目にします。
生成AIによるイメージが写真の賞を取ったと言うこともあり、私達写真を取扱う者も意識せざるを得ない段階まで来ています。

事実としてchatGPTはかなり便利で、生活に取り入れている方は増加していく一方です。

ちょっとした質問を返すことから、文の要約、テキスト生成、ギャンブルやスポーツの勝率予想など多岐に渡り進化を続けている最中と言えます。

そんなAIが導き出す答えは現時点では世界に存在している情報を掻き集めた相似のものとなっています。

これを「理解して扱うこと」と「AIが出した答えなら正しいと違いない」と考えることには決定的な差があり人としてのアイデンティティを奪いかねないと私は思うのです。

後者のようにAIを無条件に信仰してしまう人が増加した時、そこに訪れるのは破滅で歴史が証明しています。

「AI=卑弥呼」となる事を恐れていて、
今後AIが進化しブラックボックスとなった時、そこから吐き出される言葉は呪術による祝詞や占いと変わらぬのではないかと考えています。

「だって卑弥呼様が正しいって言ったからこの写真は最高なんだ!!」と言われてもそれは写真表現の進化を止めてしまうことに等しいですから。

写真に意味や感動させるニュアンスを含ませるには人が人である事を辞めてしまっては本末転倒で、悩み時には内向し、人と接し続ける事でいい写真を生み出せるのではないかと思います。

消費社会とファスト写真

先ほど述べた一説の話で世界では10億枚/1日の写真が撮られている話の続きになりますが、現代における娯楽や作品の消費スピードは爆速です。

消費が早いことで最近の音楽や写真のファスト化が著しいと感じています。

CDによって音楽を聴いていた時代はアルバムが先行で販売されて人気曲が後からシングル化なんて事がザレにありました。

現代のようにタイアップ用にシングルで売り出し後から他の曲とパッケージングしアルバム化するなんて事は少なかったはずです。

これは当然CDという物質からダウンロード、サブスク化が大きく影響していると感じています。

写真ではスマホの普及により誰でも写真が撮れる時代になりSNSの発達により物質化する機会が失われつつあります。

かつて家族写真をアルバムにして保管することが通常だった時代からデータを共有していつでもどこでも閲覧できるライトで身近な存在へと変容したのです。

これを決して悪いことと言いたいわけではなくて、私たちは写真で表現する以上ここを常に考えなければならないと思っています。

この波に逆行してプリントして残すことを広めることもよし、データの取り扱い方をもっと変容させるもよしと言うことです。

まとめ

今回の内容を通して皆さんに1番伝えたい事は、

・写真について考える事をやめないで
・時代は循環するし進化する。
・あわよくばこの写真を広め発展させていこう

と言ったことです。

かなりふわっとした内容になってしまいましたが、私自身整理しきれてないまま文字に起こしたため理解しにくい部分や違うと思われる部分もあると思います。

いつでもコメントを受け付けていますのでnoteの感想欄でもXやinstagramでもお声がけください!

最後にこの記事を書くきっかけになったものを共有しておきます。

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