見出し画像

グループ展 「路上、路常、路情。」 その2

さて、前回の記事の続きです。
今回は映像の内容の話もするので、もし良ければ初めにこちらの映像を見て下さい。
こちらが展示作品『環 -meguru-』です。
ちなみに12分くらいあります。

ダンサー感

今回のグループ展の特徴として、参加した作家全員がストリートダンサーであり、ストリートカルチャーをルーツとしている、という点があります。
なので、各々の作品にもダンスやストリートカルチャーから影響を受けている部分が随所に見られます。
しかし正直、「ダンサーっぽい」とか「ストリートっぽい」という言葉に対して自分は抵抗がありました。
これはストリートダンスがオリジナリティを強く求められる分野であることに原因があると思いますが、一番は「みんなと同じは嫌だ」という、ちょっとした我の強さとか捻くれた考え方が原因じゃないかと思ってます。笑

しかし今回、「◯◯っぽい」ということの持つ力を目の当たりにしました。

来場いただいた方に作品の説明をする中で、長年映像の仕事をしている女性とお話する機会がありました。
彼女は元々TVCMなどを手掛けるプロデューサーで、現在はCMの他に舞台なども手掛けているというすごい方でした。
彼女には仕事で映像をやっていることをすぐに見抜かれ、仕事の傍らダンスの映像作品作りも行なっていること、ブレイクダンスは地面を使うダンスだから場所との関係性が強いダンスであることなどを説明しました。
するとその話の後に女性は納得したように、「だからローアングルが多いんですね」と言いました。

その時、気づきました。
自分がやっていたのはただのローアングルじゃなくて、ダンサーの心情に同調するブレイクダンサーとしての視点作りであったと。
つまり、あれは視聴者にダンスをカッコよく見せるためのアングルではなく、アングルそのものが見る側の視点ということです。
要するに、主体を視聴者ではなく自分(ダンサー)に置いていたんですね。

視点・主体をどこに置くかというのは映像作りでは日常的に行うことなので逆に見落としていましたが、ダンサーじゃない人の目線で見たら、あれは到底同調することの出来ない視点だったということになります。いや、当たり前のことなんですけどね。笑
ということになると、あれは完全にエゴイズム的な映像だったということになりますね。
まあ、同調は初めから求めてなかったのでいいんですが。

もちろん、ローアングルなんて何も特別なことではありません。
でも他のカメラマンのローアングルと、ブレイクダンサーとして人と場所を見つめてきた自分のローアングルは違います。
見る側からしたら明確な差は無いかもしれないので、同じと言われてもそれはそれで正解です。
でも、アングルやカメラワークに滲み出るダンサー感は、きっと無意識に見ている人に伝わっているんだろうと思います。

ストリート感

「こういう視点で柳ヶ瀬を切り取っている展示は初めて見た。」

この言葉を聞いた時が、自分達にとっての当たり前は当たり前じゃなかったんだと、改めて気づかされた瞬間でした。

実は展示が始まるまでは、不安だらけでした。
何よりも、現地の人に受け入れられるんだろうかという不安が一番大きかった。
場所性が重要なテーマであるグループ展だったんですが、やはり完全に現地の人の生活や視点を知ることはとても時間がかかります。
正直、理想とは程遠い状態で当日を迎え、現状のやれることをやるしかない!というシャカリキなマインドで展示をスタートしました。

しかし現地の方の反応は、その不安を打ち消すものでした。

自分が一番怖れていたのは、外から来たヤツらによる、自分の主張をするだけの展示になってしまうこと。
でも現地の人からすると、むしろ外から柳ヶ瀬を見た視点が新鮮だったようで、作品の表現方法や自分達のコミュニティに強く関心を持っていただけたりしました。

ストリートダンスをルーツに表現活動を行う、なんて、今時なにも珍しいことではありません。その分野において自分より優れた人なんてゴマンといます。
それでも自分達がこうやってカタチにして人に伝えたことで、自分達の存在は特別なもので、人に気づきを与え、ダンスに新たな価値を見出す事が出来るんだということに気づきました。(なんかエラそうですけど)

「ストリートっぽい」とか「ダンサーっぽい」というのは、一つの価値です。
単に自分達が好きだからというだけの事ではなくて、社会的に見たら価値のある事で、他の人には真似出来ない事をやっているんだと自覚するべきだと、改めて思いました。

自分はダンサーとして生きてきて、これまで社会に対する劣等感のようなものを感じていました。
社会的に見たらダンサーの人口なんてたかが知れてて、自分達のやってることにどれだけの需要があるんだろうか、その分ビジネスを本気でやった方が意味のある事が出来るんじゃないか、と考えた事もあります。
きっと同じような事を考えたことのある方は多いんじゃないでしょうか。

しかし、現状需要が無いならそれはそれで希少で特別なものです。発想の転換次第で、需要のあるものに変えられる可能性があると思います。

この滲み出るストリート感・ダンサー感を形にするということもその一つで、まだこの世にない価値(またはまだ出会っていない価値)を見出す手段なんだと思います。

さて、では今日はこの辺で。その3に続く!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?