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グループ展 「路上、路常、路情。」 その1

先日、岐阜県の柳ヶ瀬にて三週に渡り行なったグループ展「路上、路常、路情。」が無事終了しました。
どんな感じの展示だったかはこちらをご覧下さい。

本当に色々と思うところがあり、全然整理出来てません。なので書きながら整理させて下さい。笑

「展示する」ということ

今回の展示では、自分は映像作品を展示しました。
普段から映像は作ってるんですが、基本的に作品を発表する場はネットです。YouTubeだったり、SNSだったり、ホームページだったり。
昨年SIX STEP PROPAGANDAの映像作品をDVD化して発売しましたが、それは「ブレイクダンサー」という明確なターゲットがあったし、そもそも販売なので強い関心を持ってくれてる人の目にしか触れません。
今回初めて行なった「展示する」ということは、今までやってきた発表とは何もかもが違いました。

ネットは、ある程度融通が効きます。
都合が悪くなったら載せ直したり、非公開にしたり、テキストを修正したり出来ます。それに、毎日毎日新作の映像がネット上に生まれまくるので、作った瞬間の拡散も早ければ風化も早いです。
でも展示ではそれが出来ない。設営の時に流してた映像が、三週間後に来たら同じようにずっと流れている。自分がいない間もずっと流れて、見ず知らずの人の目に触れている。
この映像をこの世に生み出してしまった責任を強く感じました。

ネットでもこれは同じことなんですが、なんというか、存在の重みが違うと思いました。
物体としてその場に存在していて、さらに音も出ていたら嫌でも人の目につきます。ネットの情報は取捨選択出来ますし、スクロールしたら消えます。
でも、展示ではそこに存在してることは変えられません。本当に逃げ場がないんです。
さらに、その作品について自分の口で説明しないといけない。言葉というのは、理解と直結します。言語化する前の状態では解釈の自由があるので、あくまでも抽象的な「なんかかっこいい映像」で成り立てるんですが、言葉で説明することでその作品のイメージを縛ってしまいます。
これは作品作りの深い部分に触れることが出来る一方、作者の意志を強制してしまうことになりかねないと思って、そういう意味でも責任を感じました。一度言ったら後戻りできないというか。
なので、在廊中は常に言葉を選んでしまって、ただでさえ話すのが苦手なのに余計に言葉に詰まっていました。笑

本当に、一度作ってここまで持って来てしまった作品からは、目を背けることが出来ないなと思いました。

あと、そもそもハードルが高いと思いました。客は展示されている芸術作品を見に来てるわけです。SNSをスクロールしてる時なんてみんな大して心構えもせず流し見してて、気になる映像が出て来たら手を止めて眺める、といった具合だと思いますが、展示は大抵の人が芸術作品を見て何か吸収したいと思って来てくれるわけです。
来てくださる方のそういう姿勢も感じたので、終始緊張してました。

映像の特異性

今回一緒に展示を行なった他の作家の作品は、写真、シルクスクリーンポスター、絵などでした。
当然ですが、これらは動きません。でも映像は動きます。
動いている物に、人は時間の経過を感じます。もちろん写真や絵などからも、時間の経過や過去と現在の関係性などを人は無意識のうちに感じ取るでしょう。しかしそれはあくまでも見る側の想像です。
映像は、時間の経過をリアルタイムに目撃させます。それも自在に作り変えることの出来る時間の経過を、です。これが映像の最大の特異性だと改めて感じました。これは当然のことなんですが、とても重要な気づきです。

その他にも、明るさ、色、質感、音声、画面比率、などなど、映像のスタイルを構成する要素は様々です。
これらを自由に組み合わせることが出来ると考えると、自分はまだまだ型にハマり過ぎているし、映像表現の可能性はもっと遥かに広いものだなと感じました。

では今日はこの辺で。その2に続く!


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