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雑記 5 / 一般論からYard Act

村上春樹『羊をめぐる冒険』で鼠が "一般論をいくら並べても人はどこにも行けない、俺は今とても個人的な話をしているんだ" と言っていた。
ナイーブさを抱えたまま、一般論的な世界から「鼠」は消えて、残された「僕」は一般論的な世界に戻り青年期の終わりと対面させられる。

しかし大人になるとは、個人的な話というものが一般論的な事柄に回収されていくプロセスでもある。個人的な話も思いも、おおよそのことは一般論に含まれる範囲のことでしかないのだ。言うなれば、「一般論」の範囲は頑なな10代が敵視するものや、希望と可能性に満ち溢れた20代が想像しているよりもずっと広い、ということだ。

それでもなお、一般論と個人的な話の距離を調和させ、個人的な話と一般論的な世界のバランスを取る力が芸術にはある、と僕は信じている。個人的な話の、本当に個人的な部分を浮かび上がらせる力があるはずだ。時代遅れのロマン主義的価値観の名残だと言われても、そういうものだと僕は思う。そうでなければ、10代から20代にかけていろんな音楽を聴いて起きた心の震えがなければ、30代の後半を無事迎えることもなかっただろう。かつてそのような瞬間があったことや、あるいはこれからも、数は少なくなってもそういう出会いがあるだろう、ということはひとつの希望となる。

カントは美を個人的なものと定義する。主観的な判断力によって自己反省的にもたらさられるものであり、主観と表象の関係には客観が入り込む隙間はなく、主観が自らの中に発見するものだという。同時に、この美を感じた主観は、あらゆる人に普遍的同意を求めるものだと述べる。

少し飛躍があるけれども、一般論からはどこにも行けずとも、個人的な話を突き詰めることで一般論への回路が出来上がる、とパラフレーズしたい。ユングが個人的な無意識の奥底に、井戸の奥底の水脈の如く人類に普遍な集合的無意識が存在すると述べたように。

Yard Actの新譜がとても良いけれども全然話題になっていない。
今日はそのことを書こうと思ったのに、前置きから全然違うところに行ってしまった。
イギリスはリーズ出身、2022年のデビューアルバム発売時点でVoは30代で子どもがいて、他のメンバーも30代後半前後のようだ。ローカルなインディーバンドのキャリアはあれど、いかにもワーキングクラスなノリのポストパンク。ここに至るまでの苦労が伺える。ハードワークと希望のなさ。その中で音楽を続けること。青年期の終わりという問題を抱えたまま、世界への諦念と皮肉と鳴らし、同時にそこから抜け出して上り詰めてやろうという気概も感じて好感を持っていた。
地元で一番サッカーの上手かったイケメンが普通のおっさんになっていく様を描いたこの曲は白眉だった。

デビューアルバムが冷徹な目で世界を客観的に記述するような内容だったのが、今作の歌詞はよりパーソナルで主観的に、そこに語り手がコミットするような感覚が強まっている。前作よりもサウンドは明るく、様々なダンスミュージックの要素を取り込んで京楽的に響かせているけれども、その明るさがアイロニーとして響く。


それにしてもこのごちゃ混ぜにされた音の要素がストリーミング時代の雑食さではなく、むしろゼロ年代に音楽に熱中したおじさん世代がそれを今も擦っている、という感触があって。ひとかけらの恥ずかしさを感じつつとても励まされる。若さに固執するでもなく、老成するでもない30代中盤〜40代の等身大、って案外ないジャンルのような気もする。
そう考えると日本で同じような立ち位置にあるのはトリプルファイヤーなんじゃないか、と個人的に思うところですがどうなんでしょうか。


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