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雑記 29 / 言語化するか否か

昨日の配信が既にアーカイブ公開されてますね。

リアルタイムと後から見返すのでは気になるポイントも変わるでしょうし、実際参加していた自分自身でも、その瞬間は意識できていなかった話とか誰かの言葉もあるでしょうから復習が大事ですね。何せお勉強会ですから。時間を作って見直したいですし、ぜひご覧いただいてまた色々教えていただければと願うばかりです。
なにせ有意義な内容になっているはずです。作家の視点と、鑑賞者の視点、そしてそれを繋ぐ僕の視点が交差しながら「オリジナル」について考えるというのはなかなか無い機会かと思います。あるとすれば作家だけの発信だったり、あるいはそこに批評家が絡むとか、そういった形がほとんどでしょうから、この座組かつコメントが飛び交うというスタイル自体が珍しいのではないでしょうか。これぞ「芸術お茶会」ですし、シラスのシステムあってのことですね。

昨日の芸術お茶会でも話題になったのが言語化に関するトピック。(どんな話だったかは本編でどうぞ)
この件は終了後から今日にかけても気になって色々と考えていました。
芸術に限らず、生活していると様々な物事に対して「言語化をする/しない」という選択肢が現れます。一歩踏み込むと「言語化できる/できない」「言語化すべき/すべきでない」というレイヤーが現れます。ここで述べる「言語」は日常言語の話です。
芸術であれば「言語化すべきでない」物事や「言語化できない」何かを作品という形で置き換えることができます。絵画であれば色彩やモチーフだったり、音楽であれば音の組み合わせや音色、あるいは彫刻における削り方の流れで、そういった物事を日常言語を超えた形で表現できるのが芸術の可能性です。

日常生活における「言語化すべきでない」物事というのは誰しもが抱えるものかと思います。あえてそこを言葉にすることで人生を変えていく、という手段をとる人もいるかもしれません。SNSによってそのような選択肢も顕在化したような気もします。(もちろんそれ以前にもそのようなやり方は存在していたわけですけれども)
それでもやはり、本当に「言語化すべきではない」領域というのは存在します。そして時に、「言語化すべきでない」と「言語化できない」の区別が曖昧になっている場合もあるでしょう。
実際にこの二つの領域が近接している場合が少なからずある。特に芸術や表現全般に関わっているとその接近を強く意識させられる瞬間が多々あります。
その言語化不可能な部分とすべきでない部分の境界を見極めながら、そこでぶつかる壁や何やらを恐れずに言語化していかなければ、非日常言語領域で行われている表現を広く伝えていくことは難しいでしょう。少なくとも、日常言語によってその不可能性の領域を示すことができればより広く深く伝えられる可能性が高まります。

どんなに言葉を尽くして語っていても伝わらないことは多々ありますし、自分ではいつも考えているから相手に伝えたような気分になっていて、大切な誰かにその大切にしている気持ちが十分に伝わっていない、というのもよくあることです。だからできる限りのことを、境界を見極めつつ、言語化できる技術を身につけて語っていくことが生活でも仕事でも本当に大事だな、と。
すごく長々と書いて一般論に着地してしまいました。

最後に昨日の勉強会で触れ損ねたことを書いておきます。
村上春樹『職業としての小説家』ではオリジナリティーについて論じている章があります。村上さんはニューヨーク・タイムズに寄せられたビートルズに関するレビューを引用しながら、オリジナリティーについて下記のように述べます。

"新鮮で、エネルギーに満ちて、そして間違いなくその人自身のものであること"

結局これでいいじゃん、という気分になります。そうシンプルにはいかないかもしれないですけど、それくらいの気分でいたいですね。

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