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雑記 4 / 文才が欲しい、という話

このところnoteを書き始めて「良い文章を書きたい」「文章力を上げたい」という欲求がむくむくと湧いてきている。素敵な出来事を記録するのに、その素敵さが「結局言葉では表現できないよね」みたいなところに落ち着いてしまうのがとても悲しい。寂しい。素敵な思い出があり、美しい出来事があり、素晴らしい芸術は世の中に溢れている。同じくらいの悲しみや苦しみも世界にはありふれている。

そもそも頭の中を整理するために書き始めたはずが、書けば書くほどとっ散らかっていく。あるいは頭の中がとっ散らかってることを晒し続けている。書くとは伝達行為であり、明確な意味で言語を取扱い、要点をはっきりさせ、最小の文字数で最大限に効率よく情報を伝えること。無駄な情報を削ぎ落とし、伝えるべきことを明瞭に、かつ意味の揺らぎを最小限に抑えた上で正しく伝えること。自分が文章を書くときには「そうであるべき」という先入観があり、文章を書くということを億劫に感じて生きてきた。

読む側に回ると必ずしもそうではなく、多くの文芸作品を愛好して育った。書くことと比較して、読むことはとても自由で、自分にとって良いと思える文章を読むこと、そこに物語的な流れやダイナミズムを見出すことは今でも大きな喜びだ。今の仕事にも繋がっている。物語を読むことは自分自身を今此処からどこか別のところへと移行させてくれる行為であり、ここではないあらゆる場所へと向かうための最も簡単な手段でもある。

読むことが好きで、読む力を高めすぎた結果、自分の文章を読むことが、それどころか未完成でいびつな途中経過を目にすることが嫌になったのかもしれない。あるいは自分自身のアプリオリな感覚として、「良い文章」への脅迫観念があるものだから、書くことそのものを避けて生きてきたのかもしれない。
恐らく生まれ持った特性なんだろう。昔から本を読むのは大好きだったのに、読書感想文は大嫌いだった。

今さらだけど、「文章を書くのが得意」な人たちは、些細なこと丁寧に、あらゆる角度からリズム良く描写ができて、長くなっても長さを感じさせない技術を持っている。そこに込められた情報量と文章量は必ずしも比例しない。(もちろん、ただダラダラと書いているだけなのに「文章を書ける」と言っている人もいるわけだけれども。)
そんなことをぐずぐず考えるより、肩の力を抜いて、長く書いてみることが大事で、その練習の果てに息の長い「良い文章」が書けるようになるんだろう。書けるようになるといい。やれることからやるしかない。

ともかく「良い文章である」ことと「良い内容である」はそれぞれに独立した別の話で、たいした内容の無い良い文章もたくさんある。
ハイデガーなんてものすごい密度で非常に充実した内容だけれども、文章としてはひどいものだし。カントはどうだろう。原文だと美しいのかもしれない。
「素晴らしい内容の名文」を目指すから書けないんだと肝に銘じて、書くしかない。ここは僕のためのnoteだ。

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