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「メンタル不調の変化について」追記01

こんにちは〜。
掲題についてちょこちょこ書いていきます。思いきりメモ書きです。
くれぐれもお暇な方だけ読んでください。まぢメモ。

1/3にハフポスト日本版で、この記事が掲載されました。前編/後編の2部作です。

前編↓


後編↓


わたし自身がメンタル不調になって、少しずつ少しずつ変化していくなかで、たくさんの人や本、出来事に助けてもらいました。

その一冊が川内有緒さんによる『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(以下『白鳥さんとアート』。というお話を書いています。

また、記事のなかで紹介したように伊藤絵美さん&イラスト細川貂々さんの『セルフケアの道具箱』、鳥羽和久さんの『おやときどきこども』、斎藤環さん監修/まんが水谷緑さんの『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』も、わたしを支えてくれた本たちでした。

セルフケアという言葉も使ったことがないほど、全力セルフネグレクトだったわたしは、心臓がばっくばく(激しい動悸)がしたり、胸がひりひり焦げつくような強い痛みを感じたり、内臓をえぐられるような重たい不安感が自分を支配したり……そうした初めての感覚に「なんじゃこりゃ!?」と驚き、動揺しまくって、いや、ほんと、まあまあかなりしんどかったです。

「〜たです」とあっさり過去形で言えるほど今はすっきり爽やか。

なーんてことは、いやいや全然なくて、相変わらずどきどきしてるし、浮遊感のような感覚的な不調はまだあります(めまいとも違う感覚)。

ただ、もろもろの不調に対して「まあ、とりあえず、えっか」と、「ひとまず保留」にすることが、なんとなくできるようになってきたので、いちばんしんどいところは抜けたのかなと感じています。

勝手に。

「気」のせいで起きることなので、そういう「気」になればそれでいいのだ。
お世話になっている精神科の先生もおっしゃっています(主治医の先生、めちゃくちゃ好きです。気が合うって大事だと思います。思いきり信頼しています)。

それでいいのだ。
これ、重要なんですよね。ほんと。

それこそ、むしろいちばんむずかしい、たどりつきたい場所でもありました。わたしは。

いまそんなふうに思えない。簡単に言うなやー。
という人の気持ちはわかるつもりです。簡単ではないから。思いたくても思えない。自分のせいではない。脳がバグってるからしょうがないんです(これを脳の問題とするかは微妙です。「思考」というべきか、迷いながら仮に自身の捉え方としてこう表現します)。

自分のせいにしない、ということも、めちゃくちゃ難しい。わたしは脳のせいにしていきました。同時に、脳に頼ってもいきました。

あれやこれやで、現時点では(あくまで。そろーり)、「ま、えっか」と感じられているのには、具体的な理由もあります。

わたしの夫がかつてパニック障害から軽度のうつ病をしたことがあり、彼が回復していく過程を目にしてきたからです。

自著『ほんのちょっと当事者』の長いあとがきではそのことを書きました。いちばんしんどかったときは1年くらいでしょうか。

1年ですっきりというわけではなく、それ以降も調子には波があり、10年ほど経ってみれば、そういえばもうパニック発作みたいな症状がなくなったよね。
そんなものすご〜〜く気の長い話です(時間的に)。

だから、わたしも焦るのはやめて、そのときの自分をとりあえず「見て」いこう。
現状確認、オッケー(内容はオッケーじゃなくても)。
そういうふうに自分を捉えています。

ハフポストの記事では、主にセルフケアのワーク。
なかでも「推し」活と言われるような、好きなもののことを考えたり楽しんだりすることを中心に書きました。

後半では、わたしが今実践している「オープンダイアローグ」という対話の手法と、『白鳥さんとアート』のなかで起きている出来事との共通点に触れています。

これは読んでいるときにぼんやり感じたことを、「書く」ことで検証したような感覚です。「書いてみて」はじめてわかったことがいくつもありました。それが記事になったような個人的な視点です。

『白鳥さんとアート』というすばらしく厚みのある本との出会い、著者の川内有緒さんやマイティ、白鳥さんをはじめとした、本に関連した人との関わり。

そんな同時期に実践を重ねることともなった「オープンダイアローグ」という対話の手法は、わたしのメンタル不調の変化に大きな大きなきっかけになりました。すごく助けられた。
これらがなければ、いまこうしたことを書けていないだろう。そう感じます。

だからこそ「推し」ました。

誰かにも届けばいいな、小さなきっかけの一つになればいいな。そんな気持ちで。

とはいえ、それらだけで「不安障害」の症状がおさまり、抗不安薬が不要になった。とは言えません。

記事の前半で書いた、カウンセラーの伊藤絵美さんの著書(CBTやマインドフルネスを、採り入れやすいワークで表現した本)や、伊藤さんの主宰するオンライン講座で学んだストレスコーピング(簡単にいうとストレスに対処する行動)は、かなり有効でした(わたしには)。

記事では触れていませんが、メンタル不調の初期段階では、カウンセリングを受けたこともあります(2回)。
主治医の先生とは「ただ話を聞いてもらいたいからカウンセリングを受けてみようかと思うんですけど……」「話を聞いてもらうだけ、やりたかったらそれもいいと思うよ〜」という流れでカウンセリングを受けてみました。

ただ、わたしが自分で探して相談したカウンセラーさんとのやり取りで、「ただ話を聞いてもらう」→「心の奥底に蓋をしているものを開けて見る」という流れになりました。

当時のわたしには、それはかなりしんどそうに感じたので、その時点で中断してもらいました。

カウンセリングもカウンセラーさんとの相性もあるし、わたしが相談した方もとても親身で丁寧に話を聞いてくれる良い方でしたが、「心の蓋を開けるためにカウンセリングに行く」と考えるだけでしんどくなった(ストレスに感じた)んですね。

繰り返し、その人に合った方法とカウンセラーさんと、なによりタイミングがあるように思いますので、カウンセリングを否定しているわけではありません。

わたしが思考のトレーニングでお世話になった伊藤絵美さんもカウンセラーです。カウンセラーにしかできないことがある、カウンセリングの時間でしか感じられないものもあるとても大切で貴重な時間だとも感じました。

そういう諸々を、定期的に主治医の精神科医に報告、相談するようにしました。定点観測的にわたしを見てくれる人がいた。
精神医療の専門家で、わたしには居心地のいい場所をつくってくれて、話を聞いてくれて、客観的な視点で「わたしの変化」を伝えてくれて、的確なアドバイスもしてくれる先生がいた。
それは大きな安心でした。

ちなみに先生のクリニックの待合の本棚には『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』があります。

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町田康さんの『しらふで生きる』もありますね。医学書というより、文学的なアプローチの本があるのも「先生好き♡」なところです。
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内田樹先生の『困難な成熟』『ひとりでは生きられないのも芸のうち』ほかリリー・フランキーさん&みうらじゅんさんの著書などもあり、さらに「先生、素敵♡」度が高まる本棚です。


わたしにとって、もっとも大きなよき変化を思いきりざっくりまとめると大きく2つあります。

1つめは抱えていた仕事のたいはんを中断してもらったこと。

3冊同時に抱えていた書籍の執筆、並行して4冊目以降の打ち合わせ。レギュラーで関わっていた編集の仕事を複数。
それらの多くをひとまず保留にしてもらったことで(皆さんにただただ謝りました)、慢性的な過労でよろよろになっていたことと、常に釘のように頭にささっている締切による精神的圧迫があったことから開放されたことは身体を休めることにつながりました(でも簡単には止められませんでした。いくつかは継続しました。詳細はまた書きます)。
ていうかほぼ過労。むしろ過労。ヤバかった。

2つめ。
わたしの身体的不調を目にして、かつて自身もメンタル不調になったことのある夫が、それまではわたしが全般を担っていた家事のほとんどを代わりにやってくれるようになったことです。

買い物や食事の用意、洗濯やゴミ出しなど、基本的に夫がやる。わたしはできることだけやればいい。

「夫」という「家族」との関係性、そして暮らす家という「場の環境」が変化したということです。

同時に、わたし自身も、家が散らかっていても気にしないなど、それまで自分で自分に課していた小さな「〜すべき」ことを、どんどんと手放していきました。

これは、1つめの仕事もそうだし、2つめの家のこともそうだし、身体がしんどくてできないから、諦めることができたとも言えます。身体が元気なら、「〜すべき」ことをしていたと思います。今も変わらず。

「できない」から、手放さざるをえなかった「〜すべき」のうち、特に難しいと感じていた2つめの「家のこと」について、家族(わたしの場合は夫)の協力が全面的に得られたことは、ほんとうに大きかったです。

ただ、夫の家事の協力(というより主軸になること)について、わたし自身が心から安心できるようになるにも時間がかかりました。

例えば、台所に立つ夫を背中に座っていることに対して、後ろめたさと申し訳なさと、そんなこともできないなんて自分はダメなんじゃないかと自虐する思考のループは簡単には止められませんでした。

「気にするな」
夫に言われても、「気」になるのが「気の病」です。
ほんとうに気にならなくなるのには半年くらいかかった気がします。
(やっぱり今でも気にはなります。1つめの仕事もこともそうでした)

また、周りの親しい人に、自分が困っていることや悩んでいることを話すことができるようになるにも、かなり時間がかかりました。

一人ずつ、少しずつ、話せることを話せる人に。1週間でひとりに話ができるかどうか。

それぐらい、先の見えない不安しかない暗闇のなかで、足下にぼんやり見えた小さな石をわからないまま積み上げるような、気の遠くなりそうな状態だったように思います。

いちばん近くにいる家族に助けてもらう。
家族以外の信頼する人に助けてもらう。
あんまり密な関係ではない人と関わる。どうでもいい話をする。
同じようにしんどい仲間と共感しあう。
身体を整える(鍼の治療や、歩くとかそういうできる範囲のこと)。

そういうことが相互に影響して、ほんとうに少しずつ変化したなあというのが、ざくざくざっくり駆け足の振り返りです。

あと、わたし自身が開いている「書いて読む」講座の存在は、思いがけずわたしを大きく助けてくれました。受講生の皆さんにめちゃくちゃ励まされたからです。
わたしが不調で「すみません、今は無理です」と泣きついたとき、皆さんが「いつでも大丈夫です」とただただ信じて待ってくださいました。

誰かに信じてもらえる。見守ってもらえる。ほんとにこんなにも心強いのだと、言葉のやり取りが希望をくれることをわたしが教えられました。
改めて感謝申し上げます。

あと、記事で書いたオープンダイアローグのことも、もう少し具体的な手法について書ける範囲で書いていきたいと思います。

ただ、書けることは限られています。

オープンダイアローグの場には、「その場で起きたことはその場でしか話さない」というルールがあります。

その場でどんなやり取りが行われているのか、詳細を話せません。場の安全を保つためです。そのことでわたし自身が強い安心感を得ています。だから話しません。

精神科の主治医ともオープンダイアローグをやることを事前に相談していました。経過報告もしました。大きく励ましてもらっています。それもまた書きたいと思います。

オープンダイアローグを実践する前に、関連書は一通り読んでいます。またODNJP(オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン)の賛助会員となり、不定期で行われる報告会などにもオンラインで参加しています。

斎藤環さん、森川すいめいさんが登壇されるオンラインイベントは可能な限り視聴しました(5〜6回)。
とくに森川すいめいさんの『オープンダイアローグ 私たちはこうしている』(医学書院)の発行記念イベントでの、オープンダイアローグ実践ロールプレイは、ものすごく参考になりました。あれが見られたことで、実践に対する心構えのようなものができました。

脈絡なくどんどん長くなっていますね。メモなのですみません。

ほか日々の歩くことや、鍼治療といった身体的なアプローチについても、補足して書いていきます。
オンラインで合気道のお稽古を視聴するようにもなりました(内田樹先生が主宰する「凱風館」に所属しています。なかなかお稽古に行けていないのですが……)。これも大きくわたしを助けてくれています。

夫との関係性のことも(かなり大きく変わっています)。

生きるって要素が多いので、「これだけやればオッケー」みたいなことにはならないなあ。
それも強く感じたことでした。現在進行形ですけど。笑

ここは今後書いていくことの走り書きのメモのようなものなので、今後の追記で内容が重複すると思います。

わたしは気にしません(おいおい)。気にならない方だけのぞいてください。
ぺこり。

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