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狼信仰とプチ神隠し


狼像や狼信仰に興味が出てからほぼ10数年。何がそんなに俺を引き付けるのだろうと考えてきました。でも、なかなかその本質にたどり着くのは容易ではありません。理屈をつけて理解しようとすればするほど、本質から遠ざかってしまうようなもどかしさを感じます。

ただ、あることを思い出しました。そしてその体験の感覚が、狼像の前に立ったときの感覚と似ているというか、通じるものがあることに気がついたのです。

その体験というのは、子供のころの体験です。放課後、笹船を作って、小川に流して友人と競漕しました。

ほんとに子供というのは、何かに夢中になってしまうと時間が経つのも忘れてしまうようです。笹船に声援を送りながら小川に沿って下流へ下流へと歩き続けたのです。

笹船の競漕などは決着はつかないものです。どこかでやめなければ、どこまでも下流へ歩いてしまいます。そのうち、子供としての行動範囲を抜け出してしまったようです。そして気がつくと、あたりは真っ暗になっています。

あたりの暗さに気がついて、急に怖くなりました。空にはもうすでに星が瞬いています。

あたりを見回しても、今まで来たことのない景色です。どうして「こんなに遠くまで来てしまったのだろう」と少し後悔します。

俺たちは笹船が闇に消えていくのを惜しみながらも、上流へと帰りました。川沿いに戻れば迷子になることはないと、子供ながらに思ったのかもしれません。

その後どうしたか記憶にはありませんが、家で叱られた記憶もないので、それほど大げさにはならなかったのだろうと思います。そういう時代でもあったのでしょう。

今ならどうでしょうか。暗くなっても子供が帰らないと大騒ぎになるかもしれません。

ちょっとした神隠しに遭ったようなもの。こういう状態を「プチ神隠し」と言ってもいいかもしれません。半分「異界」に行っていたと言えるかもしれません。

「物語」を調べている中で、赤坂憲雄編『物語という回路』の中の「龍潭譚考 神隠しをめぐる精神史的考察」に、こうありました。

「神隠しは天狗・鬼・山男など隠し神にバリエーションはあれ、ある超自然」的なモノによってどこか異世界へと子どもや女が連れ去られる、不思議な現象として体験されてきた。」「鏡花の「「龍潭譚」という短編小説は、神隠しを主題とした傑作として知られる。小さな、しかし、まさに傑作である。すくなくとも、これほどに生きられた神隠し体験をみごとに描き切った小説を、私は知らない。映像の世界における、ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』に匹敵するとでもいえようか。ジャンルこそ異なれ、この『ミツバチのささやき』と「龍潭譚」は神隠しを描いた傑作として、双璧をなすはず」

ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』は3度ほど観ました。

主人公アナが、フランケンシュタインと遭遇したときの表情には、ぞくぞくっとしますね。これ、芝居でしょうか。

そうか、『ミツバチのささやき』は、「神隠しの話」という観方もあったのかと。

映画では子どもたちの遊びの様子が描かれています。

焚火の火の上を飛び越したり、線路に耳を当てて列車が来るのを待ったり、危険なことをやるのが子供たち。いや「危険」と判ずるのは大人たちの基準であって、子供たちにはそもそもそんな基準はないんじゃないでしょうか。おもしろそうだからやる、それだけです。

同じような感覚はTVドラマ『北の国から』にもあります。覚えているのはこのシーンです。このことは以前書籍でも触れています。

夜の森で純、蛍、正吉の3人がUFOと遭遇し、分校の先生が「365歩のマーチ」を歌いながら現れ、先生は宇宙人かもと疑い、暗い森を逃げ帰るシーンがあります。子どもの目線で語られるそのエピソードが好きです。不思議な話のままで終わるのがまたいいですね。怖いけど魅かれる感じが良く出ているシーンだと思います。

「危険」と思うのは、やっぱり経験や知恵がついて大人になってしまったからで、子供にとって、危なさや、危なさに通じる向こう側の世界は、こっち側とはつながっている世界であるのでしょう。

大人になるとそのふたつの世界が断絶してしまうのかもしれません。だから子供は動物に近いといえるかもしれません。

『ミツバチのささやき』でフランケンシュタインが現れても、それなりに受け入れてしまう。異界のものに無防備です。だから、主人公アナは「逃亡者(脱走兵だっか犯罪者だったか)」に対しても、恐れることもなく近づき、親切にします。それはお母さんの教えでもありました。

精霊は、良い人には良いもので、悪い人には悪いものと、お母さんはアナに教えるのです。「逃亡者」はアナにとっては異界から訪れた精霊なのでしょう。そして精霊は、自分自身の心のありようでもあるのですね。「良いもの」であろうとするところに、子どもの純真さを感じます。

泉鏡花の『龍潭譚』でも主人公千里が異界で不思議な体験をして帰ってくると、大人たちが「気のへんになった者としてみな私に応対」したのです。異界での体験を信じようとせず、気が狂った、狐が憑いたで済ませてしまう。千里は、その無理解さに腹をたて、また異界へ戻りたいと思ってしまう。

異界と現実の断絶が、子供にとっては理解できません。大人たちが守ろうとしているのは、目に見える現実世界の秩序でしょうか。じゃないと、この世界はめちゃくちゃになると怖れてでもいるように。

動物(狼)も、子供も、わかっているんでしょうね。世界は、こっちとあっち、両方あってひとつの世界だと。こっちとあっちを行き来できるのが、動物(狼)であり、子供なんだと思います。

俺が狼信仰に感じるのは、そこらへんです。どこらへん?と言われてしまいそうですが。

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