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人見知り予備校講師、『ロビンソン・クルーソー』を読む

生徒の皆さん、こんにちは。見てますか。見てるわけない。だから安心して書いてます。誰にも見られたくないの。だって私、人見知りなんだもの。嘘つけ、人前でぺらぺらしゃべる職業じゃねえか、って言われても、あれは必死のパッチでやってることで、本当は部屋でひとり本を読んでるだけで幸せなんです。アートの本とか、動物の本とか。でもやっぱり仕事関係の本が多くなっちゃいますねえ。『ロビンソン・クルーソー』も、ちょっと授業で必要だったんで。

『ロビンソン・クルーソー』といえば、無人島でひとり、知恵とガッツで生きていく姿を描いた物語、という方向で紹介されがちだけれども、私はそこがポイントだとは思っていません。ああなるほど、『ロビンソン』とは経済小説である、ってやつね、と思われるかもしれないが、それだってもうとっくの昔にマルクスやウェーバーが目をつけてたことだから、特段たいした論じゃない。じゃあ何か。

結論から言いましょう、ロビンソンが人をこわがる、そのシーンこそがクライマックスであると。

英語のclimaxは、ラテン語のclimax、さらにはギリシャ語のklimaxすなわちladderが語源です。いちばん上の段までのぼったら、あとは降りるだけですよね。何事も、上がっていく、つまりescalateしていったものは、バブルのように崩壊するのみ。お気をつけあそばせ、プーチン閣下。

昨年2022年のTIMEのPerson of the Yearは、プーチン大統領かなとも思ってましたが、ゼレンスキー大統領でした。2016年はトランプ大統領。2012年がオバマ大統領。世界はかくも短期間にイデオロギーのシーソーでぎったんばったん、あっち行ったりこっち行ったりしているわけです。まあ、物理の世界から見ても、エネルギーってのはそんなもんでしょう、保存の法則です。あっちが押せばこっちがへこむ。無理が通れば道理引っ込む。問題なのは、いまや誰もが自分の主義主張を引っ込めようとしないことです。

外交は、言いたいことを言いまくる格闘技ではなくて、相手の言い分とこっちの言い分を突き合わせて、ちょうどいいところ、49:51でこっちが勝つための術です。政治の世界は、いい悪いは別として、今までそれでやってきた。ところが昨今、暴れん坊が幅をきかすようになっている。普通にしてた側にしてみれば、ルールが違うというか、競技が変わったというか、ゴールが動いた、どうする家康じゃなかったどうする国家安康、収拾つかないレベルの分断です。

トランプ氏が大統領選に出馬し、あるいは当選した時から、この分断が如実に、かつ深くなった、と言われることが多い。トランプ主犯論。忘れもしません、大統領選の当日、私はたまたま休みで、CNNだったかNHKだったかをつけながら、スマホでツイッターの関連ハッシュタグのツイートもちらちら目で追っていました。世界中の全リベラルが、トランプさんって実際どれくらい得票できんのかしら、くらいの雰囲気で開票速報を待っていたときです。視界の片隅に、あるツイートがひっかかりました。

「マスコミはバカだ、自分らはなんでも知ってるって、俺らがなに考えてるか知らねえくせに、見てろよバカども」

大意はこんな感じです。あの怒りに満ちた英語が私は今でも忘れられません。そのアカウントのプロフィール情報の全てが事実であると信じるならば、発言した本人は、労働者階級の若い有色人種の男性でした。この人たちこんなに怒ってる。トランプが勝つ。私が初めて気づいた瞬間です。

それまで私はアメリカの友人と、「いやあー、言うてもクリントンさん行くでしょー、21世紀のアメリカだよー、女性大統領でしょー」なんて軽口たたいていたのです。アメリカの世論調査でクリントンさんが勝ちそうだ、という情報をうのみにしていた。そっか。人はマスコミなんかにほんとのことを話すわけないのか。初めて気づきました。頭ぶん殴られて氷水ぶっかけられた気分でした。まずい。手足が震えました。世界の底が割れる。そっからはもう戻らない。

これは、トランプ氏の当選による不安とか怒りが出てきたということでは決してありません。私はそのとき初めて、「彼ら」がクリントンさんを嫌っているのではなく、マスコミや有識者などの「私たち」を憎んでいるのだ、という現実を目の当たりにしたのです。私は温室でぬくぬく育っていたから、そんなことも知らなかった。そういう人がいることは頭の中ではわかっていたけど、概念であって、実体じゃなかった。ところがどうだ、このツイート主は、こんなにも怒ってこっちに敵意をむき出しにしている。

その一瞬に、世界中で、何万ものツイートが投稿されていくのですから、当然その無名の若者のつぶやきも、あっというまにタイムラインのいちばん下へのまれて消えていきました。それがかえっておそろしかった。地底のマグマにのみこまれていった、彼の断末魔みたいでした。そしてアメリカ中に、同じような怒りや恨みの声をあげている人が無数にいて、声をあげてはマグマにのまれて消えてゆく、とめどもない光景でした。彼らは、なんとかして、私たちの足首でも服の裾でもつかんで、私たちをそっちに引きずり込もうとしていました。次はおまえだ、今度はおまえらの番だ。俺らが今までこんなことを味あわされてきたんだから、お前らも味わえ。彼らが真に憎んでいたのは、私たちだった。彼らの敵は彼女じゃない。彼は主犯じゃない。今でも夢に見ます。

つまり、こういうことです。テレビや新聞で政治や経済を語る立場の人間は、そうじゃない立場の人間のことを、まったく知りもしなかったのです。小難しいニュース番組の用語が、たとえば、ヒルビリーの高校をドロップアウトしたシングルマザーに伝わっていなかったとしても、知ったこっちゃない、「視聴者」がわかっていればいいのです。どうせ見てないだろうって話です。ところが彼らは見ていた。見ているどころか、自分たちが無視されている、はなから対象になっていない、除外されていることに気がついていた。のけものにされる、相手にされない哀しみ。愛情の反対語は憎しみではなく無関心とは言うものの、やっぱり人は憎むのです。

それからは、私の予想した通り、皆さんもご存じの通り、ヘイトという市民革命が起き続けています。革命? テロの間違いだろ? とお行儀のよい方は言うかもしれない。いや、これは革命ですよ。内戦です。誰かにとってのテロリストは誰かにとってのフリーダムファイター。彼らは彼らの独立を求めて闘っているのです。私たちにずっと足蹴にされてきたから。私たちがずっと無視してきたから。

トランプ支持の父親が、Qアノン信者になり、まったく話が通じなくなってしまった娘さんの記事を読んだことがあります。娘はなんとかして父親に歩み寄ろうとしますが、互いの意見は平行線、はた目にもちょっと修復は難しそうでした。記者が最後に訊きます、なんで自分の娘よりもトランプ大統領やQアノンのことを信じるんだと。彼はぽつりと答えます。やっと話を聴いてくれる人が現れたんだ。

そんなことないよ、私はリベラルで、どんな立場の人の意見も尊重してる。とお行儀のよい方は言うかもしれない。でも相手はそうは思っていない。相手にそう思わせてしまったことが問題なのです。そんなのいじめっこの論理です。相手がそう感じてる以上、こちらが許されるわけがない。これまでしてしまったことを、もう今後は一切しない、あるいは、これまでしてきたこととと、真逆のことをする、しか道はない。

マスコミはマスコミと名乗っているけど、そのマスの中に何人の人間が含まれているのか。政治ひとつとっても、たとえば、選挙に行けと人は言う。だけどその選挙の行き方を知らない人に、行き方から教えるような番組や記事を届けたか。つくったか、じゃない。つくるのは当然。届いているか、手を尽くしたか、手を変え品を変えなきゃいけないのではないか、試行錯誤してほしい。言葉づかいから変えなきゃいけないかもしれない。だって見たってわかんないんだから。若者のテレビ離れとか言って責任転嫁してる場合じゃない。池上さんの特番や中田あっちゃんやらゆっくり解説やら、なんでまあまあ人気なのか、一回ちゃんと研究したほうがいい。真ん中の層、理論上の視聴者、理想の相手に合わせるな。マスってそういう意味じゃないだろう。

選挙に行ける我々も、考え直さなきゃいけないことがある。民主主義とは49:51で勝つ術であり、自分の主張を100%通す格闘技じゃない。民主主義が保証してくれているのは、49%のあなたにも100%の発言権が与えられている、ということであって、あなたの主義主張が100パーそのまま通るわけじゃない。そんなのショッピングモールであれ買ってだっこしてまだ帰らないいいいっつって泣きわめいてるこどもと一緒。いや俺これまでそうやって生きてこれたよって人は、おめでとうございます、あなたは100パー独裁者です。

これはおそらくアラブの春から始まったことだと見ているのですが、

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