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雨が降ってます

五月四日に撮った写真の使いまわし。昨日は引きこもっていたから写真は撮らなかった。雨も降っていたんで。読む本がたくさんあるというか大江健三郎が一冊に限定できないからとっ散らかってしまうのだった。そして録画した「100分de
名著『燃あがる緑の木』」。テン窪は浮島だったのか。そこが読めてなかった。

「100分de名著『燃あがる緑の木』。第二回まで見た。空っぽの自分というのは、虚無主義なのだが、それが容れ物になるという思考はキリスト教的でもあるし、仏教の空の思想でもある。「燃あがる緑の木」は死と再生の物語であるならば、死は過去の人が残したコトバであり、それを生き直すということで文学のコトバをもう一度自分の中で問い直すということで、そのコトバの力(言霊だろうか?)が宿るということでいいと思う。それは同じ風景を見る。例えば詩人のコトバから今いる場所から眺めた風景が重なる時こそ、「一瞬よりも長く続いた間」だったりするのだ。それが詩的言語と呼ばれるものだろうか?呼吸と言っていたな。そういう詩人のコトバを祝詞のように声を出す時に祈りのコトバになるのではないだろうか?

和歌も本来はそういうことなんだろう。ただそこに天皇制がくっついてしまうから天皇を賛美するものじゃないと思うだけで死者と共鳴したコトバに感じて呼吸することは同じなのかもしれない。大江健三郎はその詩的言語を世界文学から引用してくるのだった。今日の大江健三郎。

読書。富岡多恵子『波うつ土地』。これはそれまでの私小説が男性によって書かれたものを女性の同じような視点で描いた小説かと思える。真っ先に浮かんだのが独歩『武蔵野』なのだが、大岡昇平『武蔵野夫人』のパロディかもしれないな。

雨が降っている歌を。今日は藤圭子。

今日の一句が決まらない。NHK俳句見よう。

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