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風船海月

グルに出会ったのは運命だと思う。よく宗教と勘違いされるのだが、厳密に言えば精神医学だろうか?睡眠療法だ。

人は現実生活と夢想生活の2つの世界で生きている。ただ夢想世界は無意識下のことで人はコントロールできないとされている。しかし、それは訓練すれば誰でも出来るようになるのだ。

ただその訓練にはやはり指導者がいる。それは、夢の世界が非常に危険だからだ。なぜ危険なのかは、現実世界よりも心地好いからだ。まあ、コントロール出来ないと悪夢になる。

夢の中では成りたい自分に成れるのだ。ただそれは夢の中だけだ。夢から覚めてしまえばまた元の現実生活が待っている。だから人は夢の中に逃避したくなる。それが危険なのだ。そのことがわからないと夢から覚めようとはしない。最初はグルが現実に戻してくれるのだ。夢の中へ導いてくれるのもグルなのだが、これは経験を積めば一人でもできるかもしれない。しかし、一人で目覚めることは困難である。

芥川竜之介『杜子春』を知っているだろうか?仙人になれる修業をするために一言も喋ってはならぬと言われて、母が馬になって鞭打たれる姿に声を上げてしまう。しかし、それは現実生活に戻るために必要だったのだ。

もし杜子春があのまま現実生活に戻れなければどうなっていただろう?実は中国の古典では、そっちの話の方がメインなのである。そして、母が鞭打たれる展開は芥川の創作だった。マザコンなのか?男は誰しもマザコンの気はあるだろうが。

それで中国の元の話は、女に転生するのだ。それも不幸真っ只中の。今の日本に生まれた男尊女卑以上に、中国の昔話だから、それは壮絶なんだ。それでも杜子春は声を上げなかった。

それが杜子春の世界では現実だった。女はこうしたものだという諦念の気持ちがあったのだ。それは母を鞭打たれるよりマシなのだ。何故なら他者の痛みは想像出来ない。それは想像以上の痛みを感じてしまうということだ。愛する人ならばなおさら。

映画でもヒーローが自分の拷問には耐えられるのに娘や恋人が拷問にかけられると、つい自白してしまう。誰もが自分だけで生きていけるのではない。自己犠牲は案外簡単なものなのかもしれない。誰しもマゾには成れるものなのだ。

話を戻すと夢の話だ。勿論、悪夢を見たいわけではない。だから、危険なのは最初に言ったことだ。まず良夢を見るのには良夢をイメージすればいいのではない。現実の悪夢を繰り返し繰り返し思い起こすのだ。そして、精神が疲労しきったときに無意識で良夢を必要とする。だから戻れなくなってしまう。芥川の杜子春では悪夢だからこそ戻れたのに、中国の古典では最終的には金持ちと結婚してしまう。その受け身の姿勢。だから目覚めることは出来ない。

僕は良夢を見る方法を知っている。だからこの糞忌々しい現実にこうした日記を書いていられる。これは遺書なのだ。

その時グルがやってきて、僕に母の姿を映し出した。認知症の母だ。これは現実のことだ。だから恐れることはなかった。現実では母はもう僕のことを覚えていない。それが母の現実世界になってしまった。その現実から引き戻すことが果たしていいのか?母の生活はもう別世界.......僕の居ない別世界の生活.........

.........僕は母の空なる世界を彷徨う.........海月(くらげ)になって夜の世界を漂う..........海月(くらげ)には海の中に母がいる.........そして月の世界はそれを眺めている.........ぷかぷか浮いているのは僕の意識の(くらげ)........母の胎内の中の(くらげ.)........

それは.........(ふうせんくらげ).........海から川に遡り.........天上の山までは辿り着けない.........(くらげ)は真水になって........(  )は命を失う.........しかし.........月になった( ).........どっちの世界が現実なのだろうか..........君が見ている世界か.........僕が見ている世界か..........

脳だけが生きている.........母が僕を見つめた.........


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