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クソムシはダンゴムシなんだ

『惡の華』(日本/2019)監督井口昇 出演伊藤健太郎/玉城ティナ/秋田汐梨/飯豊まりえ/鶴見辰吾/坂井真紀 原作押見修造

ボードレール『悪の華』を読んでまったく読めないでネット検索したら、漫画『惡の華』がヒットした。アニメもあることを知って一話だけみたら面白そうかなと思い映画も観た。

結論から言うとボードレール好きな中学生が、「恐るべき子供たち」の系譜を引く仲村佐和の破天荒な行動の前にあたふたするSMもどきな青春映画だった。絶望はしても通過儀礼(思春期)として大人になる映画なんでもやもやが残る。ボードレールでもなく「恐るべき子供たち」でもなかった。パロディ的なのかな。最初は面白かったのだが、結末に従って純愛映画になっていく。そういう大人になりたくなかったのと違うのか?クソムシという言葉が虚しく反復するのは何故だろう?

祭りのシーンで、台座によじ登り、石油を被って自爆テロを起こそうとするシーンで失敗する。まあ自爆テロの必然性もなければ、ジハードを目指す者でもない。空っぽの自分を何かで埋めようとするのは、愛(純愛)なんだろうなと思うのだがそれも失敗していた。それまでの映画だったら、ミューズであるヒロインは自滅するのであるが、だから語り手が残る。

この映画には語り手は、もう一人いて高校生の彼女だ。本好きで創作をする。一度本(フィクション)を燃やし、ミューズと自決できず、また本の世界に戻る。そして、ミューズと再開という茶番劇が待っている。あそこ意味があるのかな。青春時代の終わりというそれだけかもしれない。

そもそもボードレール『悪の華』は、倦怠しきった執行猶予中の男が欲望の街パリで娼婦のミューズに出会って詩を捧げるという詩だ。象徴詩でその中に聖書やダンテやゲーテ『ファウスト』が象徴される世界。欲望の街はゴモラのようだし、悪魔の手引き(書物)によって見出した地獄の中の一輪の「悪の華」。絶望で目覚めて悪夢の世界に引きずり込まれる。

通過儀礼として閉塞感の中でボードレーヌ『悪の華』に憧れるのは(父親)前世代の継承なのだろうと思った。終わりなき日常の宮台世代。結局、その不満は終わらせなくともいいのだという結論で終わっていく。そこに乖離があるのだ。結局、向こう側の世界は、どこまでも日本で居続ける大人となることによって継承していく世界。この状態がいつまでも続いていくのだろう。


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