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シン・俳句レッスン137


風鈴

風鈴。夏に相応しい季語であり気分的に涼を与えてくれる。

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏

蛇笏の風鈴は、秋だったのか?まあお盆過ぎという感じか、「くろがね」という鉄風鈴。

今朝の一句。

からからと風鈴はなる驟雨前 宿仮

風鈴と驟雨は季重なりだが、まだ驟雨ではないという前触れなので風鈴が主体ということでいいかな?季重なりも気にしない新興俳句だけれど。季重なりといえば蛇笏の句も季重なりなのだけど、これは秋という主題だった。季語に季節を付けるやり方は前にやったな。「夏芙蓉」とか。

現代俳句

『現代俳句 2024年8月号』から「花鳥諷詠と前衛」。

かつて前衛俳句の筑紫磐井と伝統俳句の星野高士で「花鳥諷詠」を巡ってバトル(詩のボクシングのような)ことを1998年にやっていたんだ。2千5百円という入場料が凄いな。かつてはそのぐらいに関心事であったのだが、今はあまり関心を持たれていないと思う。まあ気にする人は気にするぐらいか?あと句会で言われて凹むとか?

客観写生と花鳥諷詠は同じものか?伝統俳句の方ではあまり深く考えてない。ただ「ホトトギス」のスローガンみたいなもので、虚子がいい出した。しかし、客観写生は4Sのうち1S(素十)だけだったので、客観写生に変えて花鳥諷詠を持ってきた。虚子が秋櫻子外しのためにやった?虚子も秋櫻子から破門された。しかし虚子はそれも守っているわけでもない。

虚子は視野が広いが「ホトトギス」の長なので、方向性を持っていかねばならなかった。「ホトトギス」派の中で虚子が一番前衛性があった。「ホトトギス」の中の前衛性。星野立子は反虚子の傾向(客観写生とは言えないだろうな。そこは娘には甘い親ばかだった)。

例えば虚子は子規の鶏頭の句が理解できていなかった。それでそれを外すのだが、改めて鶏頭の句を取り上げたのは前衛俳句の批評だった。

今回の三統合の可能性というのは「ホトトギス」派からの前衛俳句への歩みよりなのかもしれない(短歌に遅れを取ったことは伝統にこだわりすぎた?)。ただ問題は戦時中の「新興俳句弾圧」問題に対して何も説明がないことだと思う。角川で川名大『昭和俳句』を出すのはいいがそれは戦後俳句に絞られるというところだ。川名大『昭和俳句の検証』の検証の部分がなされていないと思う。それがこれからの課題か?

「花鳥諷詠」がアヴァンギャルド(前衛)だと言っているのは、そこに象徴やシュールレアリスムの要素があるからだろう。それが極まると難解俳句とされるので、一般ピープルの目指す道(わかりやすさ)が欲しいというわけのようだ(俵万智系の口語短歌の流れとか、夏井いつきの俳句道場的な運動か)。

百人一句

31 来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり 秋櫻子

秋櫻子は抒情や主観を取り入れた句で虚子の客観写生に反旗を翻したのだ。馬酔木(あしび)という象徴性は『万葉集』の大伯皇女の歌にもあるように、それらの古典が秋櫻子の背景としてある。

32 父がつけしわが名立子や月を仰ぐ 星野立子

虚子が主張した花鳥諷詠には月がないのだ。それは月が内面に向かうからだと思う。客観写生よりは主観写生になりやすい。まさにそのような星野立子の句。お前が立ってどうするんだ!と虚子は言わない。

33  もりソバのおつゆが足りぬ高濱家 筑紫磐井

星野高士が特選にしたという客観写生。それよりも俳諧性だよな。俳諧性がない俳句は駄目だと思う。

34 夏草に汽罐車の車輪来て止まる  誓子

誓子は構成法や都会的素材を重視した。後の新興俳句の足場になるような句を詠んだ。水原秋桜子(みずはら・しゅうおうし)、高野素十(たかの・すじゅう)、山口誓子(やまぐち・せいし)の4Sの三人が虚子への反旗を翻したという。あと一人は誰だ?高山窓秋かと思ったら、阿波野青畝だった。

35 蟻地獄みな生きてゐる伽藍(がらん)かな 阿波野青畝

こんなところか?ちなみに虚子に客観写生の句というと「風吹いて蝶々迅く飛びにけり  素十」このような句だという。

36  あめんぼと雨とあめんぼと雨と 藤田湘子

『藤田湘子俳句20週入門』は最初に読む入門書という扱いだが、客観写生といいかねる句もある。これなんか俳諧性の句だろう。

37 簡単に口説ける共同募金の子 北大路翼

昔北王路の変換ミスで北王子と書いたら名前も書けないのかと文句を言う輩がいたが、間違いには寛容でありたいと思うのは、言葉が固定したものではなく動いているものだからだ。もともと俳句なんて言葉に出来ない流動的なものを言葉にしているのだから、いろいろな表記があるのだ。それは文字化というものに贖う宿命であり、口承性の文学は文字によらないのであるのだから、そのへんを理解してないというか?万葉仮名なんて当て字で仮名というぐらいだったのだから。

38 馬の目に雪ふり湾をひたぬらす 佐藤鬼房

馬の瞳に映る情景だが実際の写生よりは、古来からの露に映る世界とかの幻想性を詠んでいるのだと思う。それは現実ではない作者の心象風景のようなものだろう。

39 三月の甘納豆のうふふふ 坪内稔典

坪内稔典は子規を継承するが虚子とは立場が違う俳人である。子規は客観写生よりも自らの観察出来る位置から主観的に俳句を作ったのである。それが境涯俳句というような絶唱になっていくのだ。

40 あかるさや蝸牛かたくかたくねむる 中村草田男

中村草田男もわかりにくいのは、象徴性を諧謔性よりは精神性の方へ持っていこうとするからだろうか?例えばこの句だと蝸牛の精神というように。むしろそれを俳諧性のように捉えたい。

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