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シン・俳句レッスン36

赤とんぼ。「赤とんぼ」と言うとあのねのねの歌を思い出してしまいなんとなく間抜けな感じがする。アキアカネを使うとなかなかの人だみたいな。そう言えばアキアカネの句は、もう作っていたな。かなり傑作だと思ったが反応はまったくなし。俳句は誰かに読まれて一人前になるというのに。

夕雲を引き連れて秋あかね飛ぶ

「て」が邪魔かもしれない。

夕暮れを引き連れ秋、あかね飛ぶ

こっちの方がいいかもしれない。たぶん「夕暮れ」が秋の季語だったかもしれない。夏の季語だった。そういうのが俳句の面倒なところだよな。でも「夕雲」より「夕暮れ」のほうがいいに決まっている。

枝先にアキアカネとは花成らず

蝶だったら花に成ったかもしれぬ。

戦中の用紙統制と俳誌統合

川名大『昭和俳句 新詩精神(エスプリ・ヌーボー)の水脈』から「戦中の用紙統制と俳誌統合」。「京大俳句弾圧」事件から新興俳句系の俳誌が統合されて「旗艦」は廃刊になるのだが、その一つに紙不足があったという。

そうして統合される方は統合する方へ吸収されるというような。最近でも企業の吸収合併は力強い方に合併されていくというように俳誌でもそういう力関係があったようだ。中でも「ホトトギス」系は虚子が「日本文学報国会」の支部として「日本俳句作家協会」となってそこの会長になったので、いわんやかなである。それは「ホトトギス」の横暴とされたのだが、ホトトギスという鳥は托卵という習性があるから、まさに他の卵や雛を蹴落として成長したのだった。

その中で大衆ということが言われ批評文学は姿を消していくのである。

ウクライナ、地下壕から届いた俳句

ウラジスラバ・シモノバ、(監修)黛まどか『ウクライナ、地下壕から届いた俳句』が図書館にあったので、今日はそこから読んでみたいと思います。俳句が世界文学として詠まれているのは、堀田季何『世界文学としての短歌の可能性』(『女性とジェンダーと短歌―書籍版「女性が作る短歌研究」』水原紫苑編集)でも書かれていて、短歌が内輪にとどまっているのに対して俳句はけっこう国際化されているという話。

例えばロシアのウクライナ侵攻でETVで両国の俳句を紹介していた。

ETV特集 戦禍の中のHAIKU -NHKオンデマンド https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2022123823SA000/

その中に出てきたウクライナの俳人である著者が出版した句集だ。多分ウクライナという話題性もあるのだろうが、戦時に短い言葉でこれだけ表現できるのは凄いと思った。アニメだけじゃなく、こういう文化が世界に広がっていくことは喜ばしいことだ。

ウラジスラバが俳句を始めたのが14歳で病院にいるときに退院した人が置いていった芭蕉の句集だった。

まづ祝え梅をこころの冬籠り  松尾芭蕉

この句と病院で出会うことも凄いが、14歳という多感な女子が芭蕉の俳句に癒やされたことを喜びたい。不思議と元気が出そうな句だ。芭蕉の偉大な言葉の力。

老犬の瞳に映る月涼し
西日射す大人となれる影法師
屋根の上歩いてみたき月夜かな
帰らざる兵士の車雪しまく
樅(もみ)ぼくりひとつ拾つて退院す
真白なる花びら靴につけしまま
三日月の滴らせたる雫かな
菊花茶の菊のゆるりとひらきをり
届かざる窓いっぱいの桜かな
地下壕に紙飛行機や子らの春
地下壕に開く日本の句集かな
いくたびも腕なき袖に触るる兵
警報の空を旋回つばくらめ
引き裂かれしカーテンの夏の蝶よぎる
街の灯の消えハルキウの星月夜と思う。

「老犬の」はウラジスラバが俳句を始めて一年後に、すでにこのような句を詠んでいた。むろん、これは翻訳の力も大きいだろうが、ロシア語で三行詩ということだった。ロシア語が読めない自分が悲しい。

あと彼女はロシア語が母語だったのだ。ウクライナ語はその後で知ることになる。しかし、ロシアがウクライナに侵攻してきてからロシア語を使うのを止めたそうだ。この俳句はロシア語で書かれているのは、せめてもの花向けなのだろうか?ウクライナに侵攻してきたロシア兵に対しての。

「西日射す」は病院で自身の影法師を観ての句だろうか?西日が初潮のような赤さは、大人になった証かもしれない。

まだ病院の窓から外を眺めているのだろうか。月に対しての感情は同じ月を観ていたのかもしれないと思うと心温まる句である。そして、句の中では歩いている彼女も想像できるのだ。

「帰らざる」の句はウクライナ東部の武力紛争と詞書(2014.11.30)。クリミア半島の武力紛争をTVで観ての句だろうか?

「樅(もみ)ぼくり」って、樅の木も松ぼっくりのような実がなるのか?退院の記念に拾ったのだろうけどその木が彼女の病院でのマザーツリーだったのかもしれない。看護の木か?

この花は時期的に桜だろう。彼女の歌に桜が多いのは日本人が選んだからだろうか?でも意識的に桜を詠んでいるような気がする。前年の桜の句は病院で詠んだ句だった。

さくらさくら離れ離れになりゆけり

「三日月の」のという月の句も季節に関わりなく多い。それも同じに見える月でもその時期で感じ方の違いが出るのだろう。月並み俳句などと正岡子規は言うのだが。この句なんか宇多田ヒカルの『エヴァ』のエンディング曲の「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を連想する。

菊花茶はハーブティみたいなものだろうか?菊の花びらが開いていくと共に秋の香りも漂ってくるのだろう。贅沢な平和な時間。

「届かざる」は2020年の桜。十月に詠んでいるのだが、もしかしたら病院のときに句を改定した句かもしれない。そのぐらいこのときの印象が強いのかもしれない。ウクライナの桜だとチェーホフのイメージが強いのかな。人々との別離とまた再会と。

「地下壕に」からはロシアのウクライナ侵攻以後の俳句。
非日常としての地下壕だけど紙飛行機で遊ぶ子供たちの日常

「日本の句集」は日本人向けに入れたのかもしれないが、地下壕で集団の中で読む本は限られてくる。句集がやっぱいいのかなと思う。

「いくたびも」は戦争の悲惨さとこれ以上伝える句はないというぐらいリアルだ。

「警報の」は旋回は飛行物体とも取れるが、「王子とつばめ」(『幸福の王子』)を連想して、メルヘン的なものと「警報の」の臨場感と対になっているような。

「引き裂かれしカーテン」は共産圏と資本主義の間を「鉄のカーテン」と言った比喩もあるように、ここでは国境だと連想するのだが、夏蝶が亡くなった人の魂のイメージで、そんな蝶の魂が過ぎっていくのかなと。

戦争という悲惨な状況にありながら星月夜を眺める余裕があるのは俳句をやっていたからだろうか?やっぱ戦争句という中に平和時にない祈りのようなものや生き物に対しての博愛の気持ちが良く出ていると思う。

NHK俳句

高野ムツオ選。「茸」句会。面白かった。高野ムツオ先生の会は面白い。こんな楽しい句会なら参加してみたいが。選句は高野ムツオ先生と同じだったが、読みの深さを感じる。女子高生の読みは斬新だった。

<兼題>村上鞆彦さん「落葉」高野ムツオさん「手」
~10月2日(月) 午後1時 締め切り~ 
https://forms.nhk.or.jp/q/QD4JDC8H

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