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アルベルチーヌさまはお発ちになりました

『失われた時を求めて9 〈第6篇〉逃げさる女』マルセル プルースト , (翻訳) 井上 究一郎(ちくま文庫)

アルベルチーヌの出奔による悲しみの進展、その死、そして三つの宿駅をたどって話者は無関心に立ちもどる。ロベールとジルベルトの新しい関係。

語り手がアルベルチーヌの情事よりも、アルベルチーヌが情事を隠すことを、語り手が暴くことに快楽を感じている。それは作家性なのかもしれない。人間の本質に関わることだからか?彼は神になったような気分なのか?「お前の罪は何でも知っているんだ」というような。でも最終的にはアルベルチーヌの魔性の方が勝っていた。それはアルベルチーヌが彼の操り人形でもなく自立したということだろうか?そして、彼はアルベルチーヌの死によってもはや彼女の罪を暴くことも虚しくなってくる。元総理のことを言っているのじゃありません。

アルベルチーヌの思い出でうんざりしていたらジルベルトが出てきて幼馴染のような懐かしさを感じてしまう。もうすっかり大人になってという感じで、毒舌夫人のゲルマント夫人(オリヤーヌ)と対峙している。スワンが亡くなったばかりだから応援したくなる。もう親戚の叔父さんですね。

このちくま文庫の井上究一郎訳は、読みにくさで定評があるようです。それでもプルーストを読みやすくするということは、原文の錯綜したプルーストを簡易化することになる。例えば角田光代の縮小版でもいいわけです。なんでこの長い人生だったら無意味とも思えるプルーストを読むのか?もう一度立ち返ると欲望なのですね。征服欲と承認欲求。この2つに見事に合致する。それはほぼ語り手の性格そのままなのです。

例えば『文學界(2021年10月号) 特集 プルーストを読む日々』を読んで、あえて読みにくいとされる井上究一郎訳を読んでいた谷崎由依にしても、『プルーストを読む生活』の柿内正午にしても、それが普通の小説以上に読み終わることへの惜別観というものが、そこで変わってしまったかつての読書体験というもの、ああ、プルーストのこの長編小説を読み終えてしまって、さらにどうするべきなのか?という問題が出てくる。

それはプルーストの創作と共通する読書体験、プルーストは書く人であったわけだけど、『失われた時を求めて』を死ぬまで増殖させた作家でもあったことを考える。この『失われた時を求めて』の人生の物語を終わりにはしたくなかった。それでも人生に死はやってくる。その間の時間は可逆的な物理学の時間ではない。不可逆的な文学の時間なのだ。

例えばこの巻は「逃げさる女」と題されいる。普通死者である女は、逃げ去ることもなければ、変化することもない。ただ消えていくことだけかもしれない。別ヴァージョンのタイトルが『消え去ったアルベルチーヌ』であったことを考えると最終的にはそこに解答があるのかもしれない。しかしそれは、「ジ・エンド」として語ることはない。

プルーストの語り手は語り続ける。記憶の増幅というのは恐ろしいもので、例えば誰もが経験する別れというものを書く。私が関係していたのは、その一部の時間だけであって、別の時間(私が関係してない時間)の彼女は別の人物と関係していたことを突きつけられる。そこに嫉妬との感情が忍び込む。どこまでも無限ループされる彼女の罪は、なによりも許されないことなのだが、もっとも許されないのは死である。それは万人が感じる感情である。

アルベルチーヌの罪に対して、記憶の食い違いが見られるのが語り手とアンドレの関係なのだ。この三角関係は永遠に答えが出ない問題でもある。それはアルベルチーヌがすでにゼロであるから。アンドレと語り手の関係性は、アルベルチーヌの関係性とパラレルになっている。ただアルベルチーヌのほうが初号機だとしたら、アンドレはアスカが乗る二号機だったわけだ。この例えはわかる人にしかわからないだろうな。端的にアルベルチーヌを愛人一号、アンドレを愛人二号としてもいいんだけど。

つまりアルベルチーヌの死後も語り手とアンドレの関係は続いていた。しかし、アンドレとアルベルチーヌが関係する時間を語り手は知ることがなかった。そこで食い違いが起きてくる。アルベルチーヌが言ったこととアンドレが言うことが一致しない。どちらかが嘘を付いている。

しかし、この関係はアンドレと語り手の関係でもあって、アンドレも愛人であることを止めて婚約する。そして、アルベルチーヌの失踪の原因が、この婚約ということだとアンドレが主張する。それは語り手がアルベルチーヌに告白させた同性愛ではなく、婚約の計画(ヴェルデュラン夫人の甥との)が語り手の知らないところで進められていた。それは貴族主義的な陰謀論めいた話になるわけで、語り手がアルベルチーヌに問いただしたのは個人的な同性愛だけだった。だから嫉妬し続けることで愛が可能だったのだが、貴族の婚約話には語り手はタッチできないわけだ。何故ならそれは階級によるもので、ブルジョワジーの目的、金ですべてを解決することが敵わない見えない貴族との壁が存在するのだから。

貴族との婚約という裏側での陰謀が語り手の知らないアルベルチーヌの一面として現れる、それはアルベルチーヌの身代わりだと思っていたアンドレの主体的行為でもある。その裏切りは、重要なわけです。それが行われた場所がヴェルデュラン夫人のサロンであったからです。ヴェルデュラン夫人のわからなさが問題なのだと思う。語り手もスワンと同じでヴェルデュラン夫人の策略を知らない。

そういうことは現実問題としてあるのだろうと思うと実際怖い話でもある。例えば結婚していても浮気しているかもと思う心理は普通なのに、恋人(妻や愛人)の行動がまったく見えていない。実際に、私が関わる時間以外は、妻であれ恋人であれ他の人と時間を共有している。それを私は知らない。多くはそれを嫉妬として愛情の裏返しと思うのだが、まったく別の時間を過ごしているかもかもしれない。離婚準備とか。「囚われの女」が「逃げさる女」になるわけです。

もう一つジルベルトがスワンのお嬢さんからフォルシュベル嬢になるのと関連してくる。それはスワンというユダヤ性(姓)を脱ぎ去って、ジルベルトが貴族となっていくからだ。語り手は、そこでも引け目を感じざる得なくなる。というか貴族に対しての複雑な感情なのだ。それがこの物語の伏線としてずっとある。いわゆる語り手は結婚できないブルジョアジーとならざる得ない。

そんな失恋関係から逃避させてくれるがママとのヴェネチア旅行(センチメンタル・ジャーニー)だった。語り手と母の関係がこの物語の最初から提示されていたのだ。ヴェネチアについては、「カルチャーラジオ 文学の世界 作家と旅するイタリアの街(ヴェネチア)」に詳しいし参考になります。

【聴き逃し】カルチャーラジオ 文学の世界 作家と旅するイタリアの街 6月30日(木)午後8:30放送 #radiru https://www2.nhk.or.jp/radio/pg/sharer.cgi?p=1929_01_3792189

休憩音楽。メンデルスゾーン「ヴェニスの舟唄」

ヴィルパジリ夫人とヴェネチアで出くわす。金持ちは行く所が同じというか行動が似てくる。最高級ホテルは限られているから、どうしても鉢合わせてとなるかもしれない、ヴィルパジリ夫人は夫とではなく、元外交官のノルポワ氏(愛人)を伴っていた。。

母の友人であるサズラ夫人は、彼女の父がヴィルパジリ夫人に破産にさせるほど入れ込む美人だったという噂を聞いていたので会ってみたいということになり、語り手がレストランでノポルワ氏と食事をしているヴィルパジリ夫人を指さすのだが、サズラ夫人が言った言葉がすごかった。

「あのテーブルには年寄りの男とならんで、小さなせむしのおばあさんが一人いるだけだわ、赤ら顔をした、いやらしい」(p.391)

語り手はずっと祖母の生存した頃からヴィルパジリ夫人を見ているのでそれほど年寄りだとは感じさせなかった(むしろ最初から年寄りだった)。この時の流れは残酷だ。ただそれをここに挟むのは意図的にヴィルパジリ夫人を貶めるためだったのだろう。老いは貴族にもやってくる。しかし、彼女には、この後に甥(サン=ルー)の結婚という目出度い話も出てくるのだ。どこまでも語り手が成し遂げられなかった結婚という成就は、語り手がもう一つ成就したことへの証明にもなるのだ。

ヴェネチアにいてもアルベルチーヌが忘れられない語り手は、株で儲けているのだが、それもアルベルチーヌと贅沢するために始めたことだった。また元外交官ノルポワ氏に対する辛辣な評価(戦争を食い止めることができなかった)とかつて語り手を足蹴にした者との落差を感じさせる。

そしてジルベルトとサン=ルーの結婚報告の手紙をアルベルチーヌの手紙と勘違いして、生きていると思ってしまうのは、表層的には過ぎさった女としながらも、深層的にはまだ未練があるからなのだろう。そして、これは後から知ったのだが、「逃げさる女」という副題が「消え去ったアルベルチーヌ」に変わったという。ここのシーンがまさに消え去ったアルベルチーヌ」の感じがする。

というのは、語り手の友人であるサン=ルーとジルベルトの結婚を誰よりも喜んだのが母であったのだ。そして、結婚出来ない語り手がいるのだ。ヴェネチアでも女遊びは止められないのだが、ヴェネチアで別れるつもりの母の汽車に飛び乗った語り手のマザコンぶり。けっこう涙を誘うシーンではあるのだが。母の話に絶えず出てくる祖母の面影。その姿が母と重なる。バルベックのアルベルチーヌとの恋に夢中で邪険にした祖母の別れのシーンと。

サン=ルーもシャルリュス男爵の血筋を引いているのか、ジルベルトも邪険にされている。それで語り手とはいい関係になっているのだが、それは語り手がジルベルトをもはや愛していないからだった。その面影に見るのはスワンなんだろうが、ジルベルトの方はユダヤ姓の父を拭い去りたいのだ。

アルベルチーヌの死のシーンが印象的な巻だった。しかし、その前の別れのシーンの方が悲痛だった気がする。それはフランソワーズの日常的な言葉によるもので、アルベルチーヌの姿よりフランソワーズの日常の言葉の声によって呼び覚まされる悲痛さだったからだ。

「アルベルチーヌさまはお発ちになりました」


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