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「三教指帰」は空海の「神曲」だった

『空海「三教指帰」 ビギナーズ 日本の思想 』加藤純隆加藤精一 (翻訳)(角川ソフィア文庫

日本に真言密教をもたらした空海が、渡唐前の青年時代に著した名著。放蕩息子に儒者・道士・仏教者がそれぞれ説得を試みるという設定で各宗教の優劣を論じ、仏教こそが最高の道であると導く情熱の書。

儒教、道教、仏教の三賢人が放蕩息子を説得するという空海が創作した寓話。これ中江兆民『三酔人経綸問答』と似ている。中江兆民は空海『三教指帰』を読んでいたと思う。

空海の略歴も載っていたので紹介します。これを書いたのは24歳のときです。空海は15歳で日本に一つしかない大学に入ったけれど、勉強の無意味さに取り憑かれて、目的意識を無くしてしまうのです。それが『三教指帰』に描かれる蛭牙公子(しつがこうし)のモデルは空海だったのです。彼は厨二病と言ったらいいのか?行き先が定まらぬモラトリアム人間だった(それでも四国八十八か所で修行をしている)。それで仏教(『大日経』)に目覚めて、唐に旅立つ。いきなり唐ですからね。日本に空海を教える人はいなかった。

そこで中国の高僧恵果に出会って当時中国で流行っていた密教の教えを乞うのです。海外から千人を超える弟子たちの中でも空海は抜きん出て、自らの後継者にすると共に日本への布教を命じます。そのとき遍照金剛(へんじょうこんごう)の名を与えられる。それが弘法大師の言われです。

中国には最低20年は修行だと決めていたのですが数年(二年といわれている)で日本に戻ってくる。

日本に帰ってくると、たちまち天皇を虜にしてしまう。密教は、呪術とかその方面で天皇にも重宝されたのでしょうね。当時は病は悪霊のせいにしてましたから、そのお祓いのようま護摩祈祷は、最澄が先に唐から帰朝して伝えたといいます。護摩祈祷は、『源氏物語』にも出てきますね。

しかし、最澄の密教は中国でも亜流のもので、正当な密教ではないと空海が示します(仏具とか経典とか)。それで最澄は空海に弟子入りするのです。先輩である最澄が空海に弟子入りするぐらいに、空海の密教は権威があったのですが、先輩である最澄はやはり空海と袂を分かちます。空海の師匠のけなしたとか。

最澄は比叡山で、空海は高野山で後継者を育てる仏教都市(山ですけど)を開く。当時の仏教僧は寺を建てるのに建築の技術も持っていたので橋や灌漑も整備出来たそうです。空海の仏教については、空海に学ぶ仏教入門 』吉村均(ちくま新書)に詳しい。

話を遣唐使前に戻して、『三教指帰』で、儒教、道教に対しての仏教の優位性を詩を含んだ戯曲のような形で伝えます。倉田百三『出家とその弟子』も戯曲なので、その形式を作ったのが空海だったと言われてます。平安時代にすでにこのような物語を創作するなんて、まさに天才ですよね。それがある程度儒教も道教も仏教も根本を掴んでいる。

それで儒教は孝行という教えなんですが、最初に親不孝ものの道楽息子(蛭牙公子)を持つ親(兎角公)が改心させたいと呼んでくる三賢人なわけです(仏経僧は身なりも貧しいのですが)。儒教の亀毛先生の説得は、中国の偉人の伝記によるもので、勉強すれば偉人になって尊敬も美しい妻も得られるというものなのです。

しかし、それはもっとも成功した場合で偉人でも後に殺されたり、罪人になったり、何よりも孔子は一生彷徨い続けたではないかと道教の虚亡隠士が反論する。彼の教えは、道教ならば不老不死も得られ魔術で鳥や魚にも変身でき、女は天女が観られると勧誘するのですね。どっかの新興宗教みたいですけど、夢幻のファンタジーばかり語る。

そこで仮名乞児は、現実の苦界の世界を語ります。リアリズムの現実の地獄世界ですね。そこから、仏経の悟りを開いた者の夢想世界を開いて見せるのです。それは地獄から天上界へ上っていくダンテ『神曲』のような高揚感がある。最初に地獄を見せてから、理想世界を見せる。その手法の鮮やかさですね。ただ儒教も道教も上辺だけしか見ていないという説もあるようです。それは空海は仏経を引き立たせるための方便だったのだからそっちの教えがメインではないのです。

苦界から浄土へという道を示したのが『三教指帰』なのです。その鮮やかな演出が後世まで語り継がれているのです。



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