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シン・短歌レッス65

今日の一句

消防車が洗車される豪雨明けの午後。豪雨は季語ではないような、出水か?今日の一句。

出水引き青空洗う消防車

「うたの日」

お題は「六」だった。6月ということか?今日の「百人一首」は、

嵐去り夏の草木の恋は燃え準備期間を6月といふらむ

口語と古語がめちゃくちゃだった。口語体だな。

嵐去り夏の草花恋は萌えひともうきうき6月という

「うき」と雨季の掛詞。♪二つだ。「6月」は「六月」にするべきだった。まあ、こんなもんか。でも完成されていない書き掛けの歌も♪4つもあるのに、僻んじゃうよね。向こうは初めての人だけど。

現代俳句(川端茅舎)

川端茅舎(ぼうしゃ)は四S以降の重要俳人。4Sは素十、秋櫻子、山口誓子、阿波野青畝。茅舎の特徴は、格調正しく緊張した調べ。高浜虚子は「花鳥諷詠真骨頂漢」って暴走族みたいだ。そんな特攻服があったら欲しいかも。それでは茅舎総長の句を心して聞けよ。

金剛の露ひとつぶや石の上
蛙の目超えて漣又さヾなみ
ぜんまいののの字ばかりの寂光土
ひらひらと月光降りぬ貝割菜
朴の花猶青雲の志

金剛の露は力と儚いものの例え。それは路上の俺たちだみたいな。

蛙の目は蛙の頭目か?最初の「漣」は漢字で漢の状態か?あとのひらがなの「さヾなみ」は後に続く揺れだという。

ゼンマイは植物で、寂光土は仏教世界で寂光浄土にあるということ。

「ひらひら」は貝割の双葉が開いた状態。月光が射しているのだから神秘的。

「朴の花(ほおのはな)」が夏の季語。茅舎が脊椎カリウスという病気になって命を落とすのだ。彼の青春を「ホオノキ」に託したのだろうか?「青雲」というと巨人の星の青雲高校を思い出す。重いコンダラだよ。

松本たかしはもう少し柔らかそうか?茅舎曰く「生来の芸術の貴公子」だとすると花形満か?洗練された美意識と繊細で鋭敏な感受性だという。小学3年生でスポーツカーを乗り回す。

俳句漫画になりそうだ。

金魚大鱗夕焼の空の如きあり
金粉をこぼして火蛾やすさまじき
虫時雨銀河いよいよ撓んだり
とつぷりと後ろ暮れゐし焚火かな
チポポと鼓打たうよ花月夜

金魚大鱗(きんぎょたいりん)最初から7音の変則打法。さらに金魚の繊細さのなかに大鱗なんだから高級ランチュウみたいなものか?その鮮やかさが夕焼けの如くだから燦然と輝くのだ。「如くなり」ではその輝きが失われてしまうので「如きあり」で花形ありみたいな。

金粉を撒き散らすかのような火蛾だという。それが花形。

「撓んだり」は「たわんだり」難しいな。弓なりに撓る(しなる)状態か?虫の声と銀河の星が一つになって時間という矢を放とうとしている状態か?難しすぎる。

焚火の後ろの闇を感受するということだという。目前の焚火よりも。タイガースの暗黒時代か?

チチポポ打法か?夢幻的な品位のある芸の世界が現出するという。

山頭火の自由律

まだ本を返却してないから再び村上護『山頭火 名句鑑賞』から。

あざみあざやかなあさのあめあがり
なんでこんなさみしい風ふく
いそいでもどるかなかなかなかな
いつも一人赤とんぼ
雨ふるふるさとははだしであるく
どつかりと山の月おちた
曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ
おとはしぐれか
月が昇って何を待つでもなく
其中雪ふる一人として火を炊く
ぬいてもぬいても草の執着をぬく

あ行の言葉遊びの世界か。山頭火の歌う姿勢だという。

山頭火が温泉地に草庵を作ろうとしたが叶わなかったときの句。まあ外部の人だったということか。
NHKドラマでフランキー堺主演のタイトルに使われたらしい。観たい。

「かなかな」の句も音韻の句で歌の句か。

俳句といふものは──それがほんとうの俳句でありかぎり──魂の詩だ、こころのあらわれを他にして俳句の本質はない、月が照り花が咲く、虫が鳴き水が流れる、そして見るところ花にあらざるはなく、思ふところ月にあらざるはなし、この境涯が俳句の母胎だ

村上護『山頭火 名句鑑賞』

難しいことを言っても山頭火は「赤とんぼ」なんだ。

「雨ふるふるさと」は吃っているようにも聞こえる。山下清のような。

しかし山頭火は理屈を述べるのだ。

かういふ安易な、英語でいふeasy-goingな生き方は百年が一年にも値しない

村上護『山頭火 名句鑑賞』

裸になれない「裸足の大将」。

そして自責の念の日記を書くのだ。

今日は誰にも逢わなかった、自分を守つて自己を省みた、──私は人を軽んじてゐなかつたか、人を怨んでゐなかつたか、友情を盗んでゐなかつたか、自分に甘えてゐなかつたか、私の生活はあまり安易ではないか、そこに向上の念も精神の志もないではないか。──

村上護『山頭火 名句鑑賞短律句

山頭火は聴覚型俳人だった。

古池や蛙とびこむ水の音
   蛙とびこむ水の音
        水の音
          音
芭蕉翁は聴覚型の詩人、音の世界

村上護『山頭火 名句鑑賞短律句

月が昇っているのにまだ何かを待つのだ。それは草庵に暮らした山頭火の不満であるかのよう。

「其中」は草庵の名前。「其中庵」。「観音経」の一節「其の中の一人」に由来するという。世界を救う人というような賢者のイメージなんだが、山頭火の救済思想か?

「草の執着」という草庵に住んでいるから起きる執着なのだろう。行乞ではそのような草の句は詠んでいない。

生えて伸びて咲いてゐる幸福

在原業平の和歌


秋の野に笹分けし朝の袖よりも逢はで来し夜ぞひちまさりけり  在原業平

露と云わず露であり、涙と云わず涙あり、の和歌だという。全然読めなかったが笹と言えば「笹かま」を思い出す。このへんの違いか?笹分けし朝なんてほとんど現在では山登りでもしない限りないだろうな。ここは熊笹か。そのぐらいのことぐらいしかわからない。ああそうか熊野詣なのかな(違うだろう)?

「朝の袖」は露に濡れている。「逢はで来し夜ぞ」逢わないで夜が来た。「ひちまさりけり」難しいが涙で濡れて勝っていることだという意らしい。

業平の歌の特徴は「心余りて言葉足らず」ということらしい。普通それは否定的意味なのだが詩歌の場合は褒め言葉。『古今集』ではこの後に小野小町の歌が相聞歌のように置かれるのだそうだ。

みるめなき我が身を浦と知らねばやかれなで海人の足るたゆく来る  小野小町

『古今集 恋』

元は別々に作られたのだが、二つを相聞歌のように並べることで物語を空想する。『伊勢物語 二十五段』はそういう話だという。

『平成歌合 新古今和歌集百番』

今日は「春歌十二番歌合」。

(歌合四十三番)
ゆらゆらと野辺にぞ春は来にけらし畝傍の山は陽炎にもゆ
ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく

春の山を詠んだうただが「天の香具山」は有名な『百人一首』の持統天皇の歌のパロディかと思われ。それも上手くないな。左の方が上手いと思うが、こっちが『新古今集』でしょう。右だと『新古今』の名が泣くような。持統天皇の歌を上げた方がいいわけだし。

違った。右は後鳥羽院の歌だった。下手すぎないか?持統天皇の歌の本歌取りだとは思うが。正比古の「畝傍の山」の方がよっぽど気が利いているような気がする。右は「空から見下ろす」感じが偉い人(天皇)ということらしい。左は野辺から視線を見上げる庶民の視線か。なかなか意味深い。

(歌合四十四番)
春風に水籠もり蘆つのぐみて水面に出でし芽(かび)の煌めく
三島江や霜もまだ干ぬ蘆の葉につのぐむほどの春風ぞふく

「蘆つのぐみ」が蘆を刈り集めることなのか?右も上手いから正比古かもしれない。左には地名があるからこっちが『新古今』でやったような気がする。左の勝ちで『新古今』は右。当たった。「つのぐみ」は「角ぐみ」で芽が出るという意味だった。ひらがなじゃわからんよな。

(歌合四十五番)
あづさ弓はる山近く家居してたえず聞きつる鶯の声
朝催(あさもよ)ひの耳近に聞く鶯の声方生(かたな)れば窓辺にたちぬ

鶯対決。左の方が単純で声調もいいような。右はでも古語が多いんで正比古がこのような歌を作るか?疑問。左正比古で勝ち。外れだった。左は山部赤人。そうか万葉歌人も入っているのだ。「方生(かたな)り」は十分成長してないこと。「あずさ弓」は春にかかる枕詞。上野正比古はそうとうの研究者のように思える。

(歌合四十六番)
岩そそく垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかな
斑消(むらぎ)えの雪路辿れば姫沢の垂水にかそけき春の音(ね)ぞする

左は万葉集の有名な歌だから必然的に正比古ではない。右の正比古の歌は自動車での雪道のような気がする。雪も斑になっていて垂水が流れる音がする。こっちの勝ちでいいか。
左の原歌は「いはばしる」だった。「かそけき」は「幽けき」。


(歌合四十七番)
去年(こぞ)の雨に山に笑ひの形見なくみどり滴(した)でて春逝かむとす
水の面(おも)にあや織りみだる春雨や山のみどりをなべて染むらむ

歌の出来としては右の方が好みだと思ったのだが。左が気になるのはなぜ「去年」なんだろう。「山笑う」は春の季語だが、ここでは笑いがない。涙ということか?そうか去年の涙で春をやり過ごすという意味だ。上手いな(女歌か?)。左が古今集で勝ち。違った「去年(こぞ)」は昨日という意味だった。昨日の雨で山の花が全て散ったという意味。右は伊勢の歌。

(歌合四十八番)
雨降れば小田のますらをいとまあれや苗代水を空にまかせて
苗代に広ごる青き水影を風は戯(そば)ひてささめきにけり

左は鎌倉武士の歌だろうか?右は現代でも成り立つので正比古、左が『新古今』で、分け。当たり。

(歌合四十九番)
思ふどちそこも知らず行き暮れぬ花の宿貸せ野辺の鶯
峡小田(かいおだ)の伏せ屋の田子こそ羨(とも)しけれ鶯まねき花と団居(まどゐ)す

鶯対決。野辺だから左は当時の旅姿だろう。右は田植えの宿ということか?左が『新古今』。右は凝っているから正比古。歌は正比古もそれほどでもないから、分け。当たり。ただ左は「伏せ屋」に寝泊まりしている農夫が羨ましいという歌だった。左は本歌取り。

思ふどち春の山辺にうちむれてそこともいはぬ旅寝してしか  素性法師

『古今集・春下』

(歌合五十番)
葛城や高間の桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲
鎌倉山崎の桜の散りまがふ大枝(おほえ)の陰に白き富士が根

桜対決。白雲と白き富士。白雲は桜の喩えとして当時流行ったとか。右の鎌倉は武士の歌のように思わせて正比古だろう。当たり。どっちもインパクトに欠ると思うのは絵葉書的だからだろうか?分け。

(歌合五十一番)
早雨(はやさめ)にいたく散りけり桜花水隅(みくま)に白き弁(よ)の畳なはる
春雨はいたくな降りそ桜花まだ見ぬ人に散らまくも推し

春雨対決。右は似たような歌があったような。左の方が優雅さはあるような。左正比古、右『新古今』で左勝ち。
当たり。右は山部赤人だった。似たような歌は定家だった。

桜色の庭の春風あともなし訪はばぞ人の雪とだにみむ  藤原定家

『新古今・春上・』

『万葉集』詠み人知らずが本歌なのか?

春雨はいたく降りそ桜花いまだに見なく散らまく惜しも  詠み人知らず

『万葉集・巻十』

(歌合五十二番)
山桜八重に散りしく木(こ)の下は花明りにぞ暮れなづみける
木の下の苔のみどりも見えぬまで八重散りしける山桜かな

山桜対決。右の方が夕暮れまで詠っていていいようだがこれは正比古。左はそのままのような気がする。右『新古今』で正比古の勝ち。当たり。「木の下」対決だった。本歌は鏡王女。

秋山の木の下隠りゆく水の我こそまさめ思はすよりは  鏡王女

『万葉集巻二』

本歌の方がいいように思うのは桜ではなく秋の落ち葉のその下の水を詠んでいるからか。わびの世界。

7勝3敗。まあまあか。でも『新古今』がわかったのではなく正比古の歌から推測したからな。『新古今』でも定家レベルは少ないな。今回正比古の歌を勝ちにしたのが多かったような。

本歌取り映画短歌

今日のお題。『波紋』

『百人一首』

雨降れば喪服も濡れてフラメンコわが身ひとつの枯身に波紋


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