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シン・俳句レッスン126


梔子の花

くちなしは思い出深いのは、昔貧乏アパートに住んでいたときに知り合った女性がくちなしの花をコップにいれて芳香剤のように部屋の消臭(当時はヘビースモーカーだったから?)を兼ねて机の真ん中に置いていたのだが、二週間ぐらいで別れ、そのときにいつまでもくちなしの花を処理しないでいたら虫が湧いてしまったのだ。捨てたくなかったのかもしれない。そのときの気持ちを読んだのが以下の俳句だった。

くちなしの花折りてまた虫を呼ぶ  宿仮

「また」は二音足りないと思ったときに使いやすい接続詞だった。だいたい三音ニ音、四音一音の組み合わせなんだよな。こういう使いやすいコトバをストックしておくのも便利かも。ほかに「ああ」という感嘆詞かな。「とき」や「もの」もどこでも使えるかも知れない。

くちなしの花折ったとき 虫を呼ぶ

とか。やはり「また」がいいかも。

うす月夜花梔子の匂ひ哉 正岡子規

月と花の取り合わせは月並み俳句なんだろうけど、どうなんだろう。それも匂いというクチナシの花そのものに思えるが、「花梔子」としたのが花の白さと印象と「うす月」が重なる描写なのか?「梔子の花」だと匂いが先に立つような。これは写生をした後に梔子の匂いに気がついたのか?「写生」というコトバは「射精」をイメージするな。だからどことなくエロスな感じなのかな。

いまいちだな。写真と合ってなかった。写真は額紫陽花だった。むしろこれからの萎んだ紫陽花を撮ってくるべきなのだ。過去にあるかもしれない。

松尾芭蕉「十七文字で言えること」

川本皓嗣『日本詩歌の伝統』「俳句の詩学」から。

俳句が十七文字の短い言葉の中であるイメージと詩として形づくるのは、その不完全さの中に読み手の想像力を刺激する部分があるからである。芭蕉は和歌における雅さの古典に今(江戸町人の俗)を対置させることで人々の共感を得たのである。その前提としてのことわざは、文字通り言葉のワザであり、西欧のエピグラムが俳句に対置されたのである(B.S.チェンバレン『芭蕉と日本の詩的エピグラム』)。ただエピグラムは俳句のような形式上の決まり事があるわけではない。

物いへば唇寒し秋の風 芭蕉

これは芭蕉の理屈の句だが、まさにエピグラムのように警句を含んでいる。ただその中に季語を入れることによって単なる警句以上の詩情があるのも事実なのだ。そこには日本の古典が培ってきた「秋の風」という雅な伝統があるのだ。

山里や万歳遅し梅の花

ここにも「梅の花」の雅の古典的世界があり、一方に山里という俗な世間では「万歳」(新年の始まりの行為だという)という俗っぽさが表現されている。その「万歳」が都会の梅よりも遅く咲くので、山里の宴会も遅いと意味であるが、都会では正月には梅も咲き(旧正月)には万歳をする風習があったということなのである。そのことを理解してないとこの句は汲み取れないように、雅な伝統(季語)と俗な風俗が上手く合わさって江戸庶民の共感を得るのだった。

風流や初めや奥の田植え歌 芭蕉

芭蕉が『おくのほそ道』で白河の関を超えて奥(州・東北地方)に入った時に詠んだ句である。田植という日本の風流の伝統(稲作文化)と庶民のうた(民謡?)という泥臭さが対置されているのである。

例えばそこに写生という技術を持ってきても俳句のような短い詩の場合は困
難なのだ。そこに二句一章という取り合わせで詩を形作っていくのだ(無論一物仕立てのような写生句もある)。その写実主義という感情の言葉は純粋な写生ではないとする。それはリアリズムということだが、『万葉集』のようなリアリズム(雅な世界)と異化作用によるリアリズムの対置する技法をすでに芭蕉は持ち合わせていたのである。それがわび・さびの風流と俳諧の滑稽という詩の姿なのであった。

鶏頭の一四五本もありぬべし 子規

鶏頭という花の雅さと数をかぞえようとする滑稽さが数えられないほどの鶏頭の景色によって一句の中で広がっていくのである。子規の「ありのまま」は滑稽なる姿であった。実際に見ているようでいて見ていない人間の滑稽さがあるから、この句は写生句だと言われるのだった。これは「鶏頭論で」様々な解釈を呼ぶ読みによって成り立つ句でもあった。

辛崎の松は花より朧にて 芭蕉

花は桜であり、桜は朧として雅な世界で和歌に詠まれてきた。この句は辛崎という桜の名所では松など眼中になく桜を観る観光客で溢れかえっている中で芭蕉は松を朧なものとして、俗世間の価値判断を詠んだものであった。芭蕉の写生は見ないことも写生なのだった。それを写実(実態がない)というのかもしれない。

山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉

写生を目の前の風景の描写だが、ここでは「何やらゆかし」と曖昧なものとしてすみれを見ているのである。その素直さが逆説的に描写への大胆さとなっているという。もしかして芭蕉はすでにすみれ草の景を過ぎ去った後に気がついたすみれ草ということなのかもしれない。それは俳句のリアリズムだという。

たとえば山路というときの句はすみれ草を見てまた返るという俳句のセオリーがあるのだった。山路という一本道なのだが、振り返るという景が「何やらゆかし」なのである。振り返らねば、ただ何もない山路を昇って折りていくだけなのだ。山路という来た道を戻るということもあるのかもしれない。信仰としての山とか、そこに聖地があるのかも。そういう言葉はかつての古典で詠まれてきた山であり、花であり、月や雨なのである。季語の本意とはそのような雅さ(古典)によって培われてきたものなのだ。それが秘技的なコトバになるほど、言霊性を帯びるのかもしれない。

清水の上から出たり春の月 許六
市中はものの匂ひや夏の月 凡兆
ながながと川一筋や雪の原 凡兆
旅人の見て往く門の柳かな 樗良

俳諧が連句から来て、その秘技性を争ったものだという。発句にその行きて返る場所を詠み込むのは、続く平句(後句)に対する暗示性を含んでいるという。その中で複数の読みが醸しだす解釈に感心したりするのが俳句の座であった。後句は前句と関連づけて読み込むことによって俳諧の世界を広げていくのだ。そのなかで曖昧さというものが要求されることもあるという。

白露も荻もこぼれ落ちることで雅さを感じた世界があり、それを「こぼさぬ荻のうねり」と誇張表現したところに江戸庶民の意気込みみたいなものがあるのか?逆説を言いたがるのが江戸っ子ならではの俗っぽさなのか?基底部の誇張や矛盾が「俳意」としての文体的特徴であるという。

嵯峨日記

『芭蕉紀行文集』「嵯峨日記」より。

「嵯峨日記」は芭蕉の死後に編集されたようで他の紀行文集が『おくのほそ道』以前に書かれたものだが、その後によるものだった。『おくのほそ道』の付録みたいな位置づけなのか。ただそのときに滞在した書物とか列挙されていて、「白氏文集」やえどまでの漢詩集や『源氏物語』や『土佐日記』という古典から和歌の本まで揃えていたので、芭蕉の俳句は古典を下敷きにしているのが理解出来る。隠遁者だけれども贅沢風流人の芭蕉だった。酒や地元の惣菜などを食べていたようで、鎌倉時代の隠遁者(僧侶)とは違う感じだ。

西行の『山家集』とか読んで句作をしていたようだ。

NHK俳句

選者:西山睦、ゲスト:若井新一(米農家)、題「植田」。新潟の豪雪地帯ならではの米作り俳句3選を紹介。星野立子新人賞を女性史上最年少で受賞した22歳が登場。

西山睦とは相性が合わないな。伝統俳句の人ということもあるのだが、「シン・現代詩レッスン」でやった「詩を作るより田を作れ」を両方ぬかりなくやっている者へのやっかみもあるのかもしれない。俳句を片手間にやるなというような。その姿勢から高柳重信のような俳句が出来るのかと?そういう方法論の問題でもあるのかもしれない。単に見栄えが良ければいいというものでもない。何を読んでいて何を読んでいないのかだった。「植田」という季語も好きじゃない。なんで田植えじゃないのか?「植田」なんて普通言うのか?ネット検索しても「植田」だけでは出てこない俳句の特殊用語なのだ。それが伝統的な稲作文化のノスタルジックな言葉であるにしても現代性がないと思う。過去の俳句を参照すればいいのではないか?

<兼題>堀田季何さん「プール」、西山睦さん「天の川」
~6月17日(月) 午後1時 締め切り~

<兼題>木暮陶句郎さん「西瓜(すいか)」、高野ムツオさん「秋風」
~7月1日(月) 午後1時 締め切り~


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